孫氏がフラれた アマゾン日本参入の秘密
ネット興亡記(2)
米シアトルのアマゾン・ドット・コムに乗り込み、ジェフ・ベゾスから「アマゾンジャパン」の立ち上げの約束をとりつけた西野伸一郎。1999年春、12年間勤めたNTTを退職した。その直後、自宅に届いた1枚のファクスに目をむいた。差出人はアマゾン・ドット・コム。「あの話は一切、なかったことにしてほしい」
アマゾンに入社した西野
シアトルでのベゾスとの握手から一転、日本進出の構想は白紙撤回するという。慌ててアマゾン側に問い合わせると、取締役会で米国事業の強化を優先させる方針が決議されたという。
当時、ネットバブルが米国でいち早く終わろうとしていた。赤字覚悟で投資を先行させるベゾス流の経営スタイルには、シビアになった投資家からの批判が相次ぐようになっていたのだ。
納得できない西野は再びシアトルに飛んだ。「それでもいつか日本に出るなら俺たちを雇えばいいじゃないか」。そうごり押しして、最終的にはシアトルのアマゾン本社に入社してしまった。スケジュールは未定ながら、西野は「信濃川プロジェクト」と題して日本進出の計画を進めることになった。アマゾンが世界一の大河から社名を得たのなら、アマゾンジャパンは日本一の信濃川を目指そうという意味だ。
そこに現れたのが、ソフトバンクを率いる孫正義だった。
ヤフーに次ぎ、アマゾンに食指
孫はアマゾンの日本進出をソフトバンクとの合弁にしようと持ちかけてきた。当時の孫はブロードバンドで通信に参入する前。米国のビジネスを日本に持ち込む「タイムマシン経営」を標榜していたころだ。
孫の狙いは日本事業だけではない。アマゾン本体への出資も打診していた。アマゾンはすでに上場していたが30%超の出資を検討していたようだ。
孫には成功体験があった。これより4年ほど前の95年にまだ米シリコンバレーで生まれたばかりのヤフーを「発見」。創業者であるジェリー・ヤンとデビッド・ファイロを口説いてヤフー本体に出資した上で翌年、合弁形式でヤフージャパンをスタートさせた。これがソフトバンクの成長を支える原動力となっていた。同じことをアマゾンで再現させようと考えたのだ。
日本で直接会談までしたが…
西野はネットエイジ時代に孫とは旧知の仲だ。西野が仲介する形でベゾスと孫の電話会談が始まった。孫は書籍を手始めに「エブリシング・ストア」へと続くベゾスの壮大な野望を絶賛するが、合弁の話になるとベゾスの歯切れが悪い。
電話会談はなんども繰り返したが、らちがあかず、ベゾスが来日して孫と直接会談することになった。おなじ99年のことだ。
「起業家として志をともにしよう」「俺たちはもうベストフレンドだ」。孫とベゾスは互いをたたえあったが、やはり合弁話に乗る様子はなかったという。こうしてアマゾン=ソフトバンク連合の構想は消えた。「結局、単独で進出しようというベゾスの意志は揺らがなかったということです」と、交渉に立ち会った西野は振り返る。
孫氏の後悔
孫もこの交渉については認めている。記者の取材に応じてこう答えた。「あの時、...
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