せき止め湖・壁の亀裂…神奈川、関東大震災のつめ跡
10万5000人を超える死者を出した関東大震災から9月で90年。被害は首都東京を壊滅させた大火災が象徴的だが、相模湾沖の震源地に近い神奈川県内でも土砂崩れなど深刻な被害が出たことは、今では知る人も少なくなっている。往事の災禍を振り返ることで、現在の防災対策への教訓が得られるのではないか――。現存する神奈川の「震災遺跡」を訪ねてみる。
■山が裂け湖に
1923年9月1日午前11時58分に相模湾沖を震源として発生した地震はマグニチュード(M)7.9。阪神大震災を大きく上回るエネルギーは神奈川県内の各地に山崩れによる被害をもたらした。今でも象徴的な地形を残しているのが秦野市南部の「震生湖」。その名の通り、震災で周辺の山林やタバコ畑が250メートル以上にわたって崩れ、せき止められた小川の水や湧水が数年かけて湿地にたまり、周囲1キロに及ぶ湖となった。
湖畔には東京帝国大学地震研究所で現地調査に当たった文学者でもある寺田寅彦の句碑がある。「山さけて成しける池や水すまし」。震生湖近くでタバコの葉やそばの実を栽培していた小泉政雄さん(93)は「山が裂ける」震災を体験し存命する数少ないひとり。「地震だ」との声で、おもわず親のひざの間に入り込んだことを覚えている。小泉さんによると、震災後しばらくは杉の立木が湖面から伸びており、「水泳の時に杉の木につかまって一休みしていた」。今は杉の木も朽ち、緑に囲まれた静かな湖面は釣りや散策をする人の憩いの場となっている。
この山崩れは幼い犠牲者を出した。2学期の始業式を終えた地元の尋常小学校の少女2人が地震後帰宅せず行方不明に。目撃者の証言などから、この山崩れに巻き込まれたとみられている。後日の村人たちの懸命の捜索のかいもなく、少女の悲劇を悼む供養塔が、湖の上に崩れ残った丘の上にひっそりと立っている。
小田原市のJR根府川駅周辺で発生した大規模な山崩れは、関東大震災の中でもひときわ深刻な土砂災害の1つだ。押し寄せた十数万立方メートルの土砂が、駅舎やホーム、入線してきた下り列車ごと相模湾へと流し去った。「日本国有鉄道百年史」によると、乗客ら死者112人、重軽傷者13人の犠牲を出した。
現在でも、被災時のホームやレールが流された土砂とともに駅直下の海底に沈んでおり、ダイバーの潜水ポイントにもなっている。無人駅舎の改札口わきに犠牲者を慰霊する碑が立っている。箱根の山が海辺に切り立つ周辺では別の土砂崩れも発生、多数の住民が犠牲となっている。
関東大震災の被災状況に詳しい名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之教授(地震学)によると、地盤がゆるんだ影響で、神奈川内陸部は土砂災害が震災後10年以上も続いたという。武村教授は「震災後に宅地化された場所も多く、同規模の地震が来た場合、前回は被害のなかった所でも、深刻な被害が起きる可能性がある」と神奈川の土砂災害の危険性について警告している。関東大震災級の地震に備えた防災対策では、都市部の家屋倒壊や火災、津波の被害に関心が集まりがちだが、内陸部の土砂崩れにも十分警戒する必要がある。
■「猛火の横浜」耐えた建物
東京大学地震研究所の古村孝志教授によると、この震災は当初、関東大震災ではなく「横浜東京の地震」と呼ばれていたという。震源地により近く家屋倒壊と、火災で甚大な被害を出した横浜は、東京と並ぶ激甚被災地という扱いだった。その後、灰じんに帰した首都の惨状がクローズアップされたためか、関東大震災という呼称が定着したようだ。
横浜の被害はまず建物の倒壊から始まった。現在の関内駅周辺は入り江を埋め立てた地域で地盤が弱く、木造建築物のほとんどが倒壊した。これに追い打ちをかけたのが市内289カ所で発生した火災。石油貯蔵施設などにも引火して火勢が拡大、炎が竜巻状に上空に燃え上がる「火災旋風」が各地で発生した。倒壊したがれきに自由を奪われた被災者は、避難することもかなわず2万4000人を超える住民が猛火の犠牲に。倒壊を免れたれんが造りの建造物はその後の大火災の猛火が割れた窓から侵入したり、屋根が焼け落ちたりして建物内に引火、避難していた人を巻き込んだ。県庁庁舎や市庁舎など倒壊しなかった建造物の多くも解体された。
現在も残っている主な建築物は開港記念横浜会館(現横浜市開港記念会館)、三井物産横浜支店、横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)などがある。開港50年を記念して1917年に建設された開港記念会館は鉄筋コンクリートで内部を補強され、27年に再開した。三井物産は現在も同社支店が入る。
同じく倒壊を免れた旧露亜銀行横浜支店はその後病院などに使用された後、大がかりな補修を実施。火災の熱による劣化や構造上の強度不足を補うために鉄筋コンクリートで内側から支えたほか、新築のように見える外壁は粉末状の石を吹き付け、壊れた彫刻部分を繊維強化プラスチック(FRP)で再現するなどして修復。2011年からウエディング施設「ラ・バンク・ド・ロア」として使われている。
外国人が多く居留していた山手地区は、れんが造りの頑丈な建築物が多く建っていたが、いずれも地震の揺れで倒壊、全滅状態となった。元町公園を整備した際に発掘された「山手80番館」の遺跡を見ると、当時の揺れの激しさが分かる。
マクガワン夫妻が住んでいたとされるれんが造りの館は、地下部分だけが発掘された。厚さ約50センチもあるれんがに亀裂が入り、床がゆがんでおり、揺れの激しさがうかがえる。れんがの間には鉄骨で補強された形跡も見える。横浜都市発展記念館の青木祐介主任調査研究員は「外国人の設計士は日本では地震が多いことを知っており、揺れに弱いれんが造りの建物に対策を取っていたが、地震動はそれを上回ったようだ」と指摘する。
山手地区は尾根の上を盛り土で造成しており、岩盤の上に建築した神奈川県庁周辺の建物よりも揺れに弱かったとの指摘もある。関東大震災のれんが製建築物の被害は、その後の建築にも大きな影響を与え、「日本全国の建築物かられんが造りが消えるきっかけになった」(青木研究員)。
■復興のシンボル、山下公園
山下公園のある場所は、震災前は海だった。ここに復興のシンボルとなる公園を建設することとなり、海岸を大量のがれきや復興事業の建設残土で埋め立てて造成した。1935年の復興記念横浜大博覧会ではメーン会場となるなど、被災者の再起の意志を支え続けた。
公園内には震災メモリアル施設「インド水塔」が設置されている。絹物貿易商として横浜にあった60店あまりの店から群馬県桐生市などの絹織物をインドに輸出していた在留インド人。その事業復活のため低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らの援助のお礼として39年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場だ。現在は水飲み場としては使われず、イスラム風の屋根の建造物が当時の面影を残している。
東日本大震災では大量のがれき処理が難航している。しかし、関東大震災で大量のがれきを出した横浜では、ほとんどが地盤沈下した場所のかさ上げに使われたため、処理問題は起こらなかった。横浜の中心街を発掘すると、現在でも大量のれんがやタイルなどを含む「震災がれき層」が顔を出すことがあるという。
復興のもう1つのシンボルに、旧英国領事館の敷地内に植えられた玉楠(たまくす)の木がある。この木の近くで日米和親条約(1854年)が結ばれたとされるが、震災直後の火災で幹の部分を焼失した。しかし、翌年にひこばえが根元から芽吹き、被災前に近い大きさに成長した。震災後に再建された英国領事館は現在、横浜開港資料館として使用され、構内で玉楠が緑の木陰をつくっている。その成長は、壊滅的な被災地横浜から立ち上がろうとする被災者の励みとなったに違いない。
(横浜支局長 和佐徹哉)
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