「マクスウェルの悪魔」は物理法則を破ったのか
日経サイエンス
19世紀に英国の物理学者の頭脳から生まれた仮想の悪魔が、21世紀の今日、日米の2つの実験室で実現した。考案者にちなんで「マクスウェルの悪魔」と呼ばれるこの悪魔は、物理法則を破り、永久機関を実現するように見える。どこに破綻があるのか長らく不明で、科学者たちの熱い議論が続いていた。今回の2つの実験で決着がつきそうだ。
悪魔は、壁で2つに仕切られた部屋の中にいる。飛び交う気体の分子を見ながら、左から来る分子は壁の窓を開けて右に通し、右から来る分子は窓を閉じて跳ね返す。やがてすべての分子は右に集まり、壁の固定を外すと、分子に押されて左に動く。悪魔が操作を繰り返し、分子を右と左に交互に移動させれば、壁はその都度、左右に動き、永久機関が実現する! これは熱力学の第二法則に反する。
今回悪魔を作ったのは、米国のテキサス大学のマーク・ライゼン教授らと、中央大学の鳥谷部祥一助教と東京大学の沙川貴大さん(現京都大学助教)らのグループだ。それぞれ独立に悪魔を実現した。
テキサス大学は、実際に気体分子を箱の中に閉じこめてレーザーで一方向のドアを作り、分子が自然に片側に集まるようにした。ドアを外すと分子は膨張して冷える。実験ではこれを繰り返し、絶対零度まであと100万分の1度まで冷却することに成功した。極低温で起きる量子現象の観察に役立つほか、素粒子の質量測定や、創薬に役立つ同位体の精製などに応用が広がりそうだ。
日本の中央大と東大のグループは、水分子の熱運動によってプラスチックの微小球がフラフラする「ブラウン運動」を観測し、目的に合ったものだけを取り出すことで、微小球を一定方向に回転させた。「分子の動きを見て操作する」という意味ではマクスウェルのオリジナルにより近く、悪魔の働きを理論的に検証する道を開いた。
日米の2人の悪魔は、果たして物理法則を破ったのだろうか? 否。物理法則は破れなかった。悪魔は、実は分子からあるものを持ち去っているからだ。それは分子がどんな状態だったかという「情報」だ。「膨大な分子に関する情報は、装置のどこかに記録されている。これを勘定に入れると、物理法則の帳尻は合う」と、この分野の第一人者、米IBMのC.H.ベネット博士は指摘する。
(詳細は日経サイエンス8月号の巻頭特集に掲載)