大津波から村を守った水門 元村長の強い意志
岩手県普代村
15メートルを超える高さを誇る水門が、東日本大震災の大津波を遮った岩手県普代村。「東北一」と呼ばれた水門は、14年前に88歳で亡くなった元村長、和村幸得さんの「津波から村を守る」という強い意志で建設されたものだった。村内で反対の声が上がるなか信念を貫いた和村さんに、村民からの感謝の言葉が尽きない。
和村さんは普代村で生まれ、中央官庁を経験後に1947年から10期にわたり村長を務めた。
普代川の河口を中心にした村は、1896年の明治三陸地震の津波でも大きな被害を受け、死者と行方不明者は1000人以上にのぼった。こうした経験から、和村さんは国や県に水門の必要性を繰り返し主張。約40年前、県と村が35億円を支出し、巨大な水門を建設することが決まった。
建設にあたり、用地をどう確保するかが大きな課題だった。当時、村の職員で、水門建設の担当だった現村長の深渡宏さん(70)は「地主の村民を説得するのが大変だった」と振り返る。建設候補地の大半は私有地で、地主の多くは「そんなに大きい水門は必要ない」と反発した。
「村民が納得していません」。ある日、村長室で和村さんに伝えると、「計画は変えない」と一喝された。「明治の津波では多くの人が死んだ。今度来る津波からは村民の命と財産を守らねばならない」。和村さんはそう訴え、一部の土地は強制収用に踏み切った。
和村さんは水門の高さでも「15.5メートルにしたい」と言って譲らなかったという。当時、海に近い土地では新しい小中学校の校舎が完成していた。明治三陸地震の津波の高さは約15メートルで、深渡さんは「明治の地震がもう一度起きても、子どもたちの命を守れる高さを目指したのだろう」と、和村さんの心中を察する。
長さ約200メートルの鋼鉄製の水門は87年に完成。今回の巨大な津波は水門をわずかに越えたが、民家には届かなかった。海辺の様子を見に行って行方不明になった男性1人のほかには、けが人もいない。津波を跳ね返した水門の海側には、海藻の養殖設備や船の無残ながれきが散乱する。
「きっといつか水門の力を分かってもらえる」と村職員を諭していた和村さん。水門から約200メートル上流に自宅がある会社員、大上重信さんは(64)は「水門がなければ集落の大部分が流されていただろう。和村さんの水門は何十人、何百人の村民の命を救った」と感謝を込めて話している。
(社会部 村岡貴仁)