大震災から2カ月、終わり見えぬ仮住まい
東北地方の太平洋沿岸に甚大な被害を及ぼし、平穏な暮らしを打ち壊した東日本大震災。11日で2カ月となるが、大津波で我が家を失った被災者は、終わりの見えない仮住まいで疲弊を深めている。いまだにライフラインの復旧しない避難所では不自由な生活が長引き、ようやく入った仮設住宅でも生活再建への道は遠い。集団避難で地元を離れて旅館に身を寄せる人々は、もとの暮らしに戻る日を待ち望んでいる。
避難所
人口の1割以上の2860人が避難所で暮らす岩手県陸前高田市。市内61カ所の避難所のうち8カ所では、水道と電気が復旧しないまま不自由な生活が続いている。
「何としても故郷に残りたいが、体調を崩す人も出てきた。もう限界かもしれない」。同市の会社員、小嶋利宏さん(58)は妻と共に震災翌日から自宅近くの月山神社に身を寄せる。妻は一時体調を崩し、盛岡市の病院に入院した。
25人が身を寄せる神社に発電機は1台だけで、使えるのは蛍光灯3本とテレビ1台まで。夜は懐中電灯で手元を照らす日々だ。生ものは保存できず、食事は缶詰など保存食が中心。小嶋さんは「このまま支援の手から取り残されてしまうのではないか」と不安をあらわにする。
仮設住宅
仮設住宅の建設が各地で進むなか、宮城県石巻市では4月下旬、最初の137戸が完成した。
「多くの人が避難所生活を続けている。仮設住宅に住めるだけで十分」。津波で自宅が流された元病院勤務、阿部喜代美さん(66)は長女と叔母と共に入居した。「悩んでも元の生活に戻れるわけじゃない」と笑い飛ばすが、津波の恐怖が頭を去らず、いつでも逃げられるように貴重品は枕元に置いて寝る。
建設業の男性(37)は妻と子供2人、妹家族ら計7人で入居。約3キロ離れた学校に通う中学3年の長女と小学4年の長男は、仕事で使う自家用車で送り迎え。「転校も考えたが長女はあと1年で卒業。行政は送迎バスなどを検討してほしい」と訴えた。
集団避難先
宮城県大崎市の谷あいに約80の旅館が集まる鳴子温泉郷には、同県南三陸町の住民約800人が集団避難し、町内の仮設住宅に入居できる日を待つ。
4月上旬に夫、義母と共に避難してきた漁業、畠山新子さん(56)は大広間で昼食を終え、「ここにいるとがれきの現実から離れられる。でも新たな生活の見通しが立たないのは変わらない」とため息をついた。
自宅、漁船、養殖施設は津波で流され、被害は数千万円。体力も衰えるなか、再びゼロから漁業を始めるべきか、2カ月を経ても結論は出ない。それでも生まれ育った町に戻りたいとの思いは強く、「今は早く仮設住宅に当選したい。後のことはそれから考えたい」と話した。