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届かぬ被災地の声、支援阻む「情報断絶」

震災1カ月で課題が露呈 16年前の教訓生かせず

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震災から1カ月が過ぎ、政府は「復興構想会議」の設置を決めた。だが被災地の時間は、すべてを飲み込んだ黒い水が引いたあの日から止まったままのように見える。

震災3週間目あたりから宮城県内の被災地を歩いた。自衛隊などの努力で命をつなぐ主要道が通り、家屋の約8割が流された南三陸町では真新しい電柱が立てられつつある。だが、中心部の志津川地区は見渡す限り何もない。町役場の防災施設は鉄骨がむき出しのまま無残な姿をさらしている。破壊された道路や堤防、横転したクルマ、思い出の品がぐしゃぐしゃにこねられた大量のがれき。暴力的な破壊の爪痕がほぼ手つかずで残る。

酸鼻を極める光景は三陸海岸を中心とする太平洋沿岸の500キロメートルにわたって数千カ所に広がっており、1つだけの風景を切り取ることは意味をなさないように思える。日を追うごとに、人々に勇気と感動を与えるような、あるいは希望の萌芽を伝えるような美談を耳にすることも増えてきた。だが、それも何万分の一、何十万分の一の「点」に過ぎない。

4月15日時点で約2430カ所の避難所に、依然として約13万8000人もの被災者が身を寄せている。5月初旬までに完成する仮設住宅は計画のわずか6%。ライフラインが断絶されたまま暮らす自宅避難者や身内宅に疎開する被災者の数は、行政もメディアもボランティア組織も誰も把握できない。しかも個々の事情は刻一刻と変化している。

いまだ「面」でとらえきることができない未曽有の事態が横たわる被災地。分かったことと言えば、16年前の教訓がふたたび頭をもたげ始めたということだ。

人と物が集まる南三陸町最大の避難所

恵まれている避難所と、そうではないところがある。いつの災害時も、物資が行き届くようになる1カ月を過ぎると、そうした話が聞こえてくる。前者を象徴するのが、南三陸町最大の避難所「総合体育館(ベイサイドアリーナ)」だ。一時は1500人もの被災者がいたが、集団移転や自宅避難が進み、14日時点で約500人と徐々に減っている。

南三陸町の中心部から北の山間部へクルマで10分ほど走ると、無傷の山あいに巨大施設が見えてくる。訪れたのは4月5日~7日で、700人ほどが寝泊まりしていた。日中は自宅避難者やボランティアなどがひっきりなしに訪れるため、人数はさらに増える。

250台収容の駐車場は満杯で、奥のグラウンドまでクルマで埋め尽くされている。さらにその奥は自衛隊の車両やヘリコプターの基地となっており、メーン施設の玄関前では連日、全国から参集したボランティアらによる炊き出しが行われていた。

玄関前にはニュースを映す大型LED(発光ダイオード)モニターを搭載した車両が止まり、夜間は照明車が入り口付近を煌々(こうこう)と照らす。館内も、東北電力の電源車によって20時30分までは明かりがつき、消灯後も非常灯は保たれた。15日午後には施設内の電気が復旧している。

駐車場の一角にはイスラエル軍が3月29日に設置したプレハブ6棟の大規模な診療所が軒を連ね、エックス線や超音波を使った検査機器など約100点と約50人の軍医・看護師がそろっていた。4月11日に撤収したが、施設は寄贈された。京都府消防局や仙台社会保険病院、宮城県歯科医師会などの医療バスもところ狭しと止まっており、メーン施設内部にも大規模な診療所がある。

震災当初は、自衛隊による最小限の物資しか届かなかった。だが、道路がつながると徐々に避難者の生活環境は改善された。

ウルトラマンショーで被災者に久しぶりの笑顔

3月18日には山形県庄内町による豚汁に餅を入れた「つゆ餅」2000人分の炊き出しが始まり、19日にはNTTドコモが移動基地局車によってFOMA回線を復旧させた。21日には、自衛隊が約40人が入れる仮設風呂を設置し、垢(あか)を落とせるようにもなった。

その頃から1日3食が全員に安定して振る舞われている。例えば4月9日のメニューは朝食がサンドイッチにカップケーキ1個と豆乳いちご。昼食がおにぎりにしゃけフレーク、切り干し大根、りんご。夕食が自衛隊による炊き出しご飯にマカロニサラダ、ほうれん草と人参のゴマ和え、漬け物、味噌汁といった具合だ。

東北自動車道が全線開通した3月23日の翌週末からは遠方から訪れる人がさらに増えた。4月2日は千葉県松戸市から訪れたグループが根菜のたっぷり入ったけんちんうどん約1000食を提供し、10日には被災地支援のための「ウルトラマン基金」によるショーが開催された。元プロ野球選手の清原和博さんや大相撲の九重親方(元横綱千代の富士)も顔を見せ、握手会やサインボールで被災者を喜ばせた。

賑わいを見せるベイサイドアリーナ。一方で、震災から1カ月たっても、光のあたらない避難所があった。

廃墟と化した魚市場や水産加工工場の先に

沿岸部の住宅密集地や水産加工施設などが壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市。15日現在で死者・不明者は5520人。約1万4000人が市内119の避難所で生活を送っている。そのうちの1つ、石巻市立渡波中学校に設置された避難所は、暗く不自由な日々を余儀なくされていた。

高速道路の三陸道を下り、石巻市内に入る。沿道の光景はいたって日常だが、石巻駅前に近づくにつれて様変わりする。津波は商店街や飲食店が密集する市街地にまで押し寄せ、駅前商店街の多くの店内ががれきに加えて汚泥やヘドロにまみれていた。

渋滞を迂回しようと海岸線の道路に回ると、そこは一面の焼け野原。津波が引いた後も重油などに引火して延焼が続いたため、黒焦げた鉄骨や自動車が爆撃を受けたかのように山積みとなっている。海岸線近くは地盤沈下の影響で今でも水が引いていない。

旧北上川にかかる巨大な橋を渡ると、広い道路の海側に魚市場や水産加工の工場があるエリアが延々と続く。構造物は残っているが、中は流され、腐った水産物が異臭を放っていた。ぐにゃりとへし折れた信号機に、転がる大型のタンク。廃墟と化したエリアの少し先に、取り残されたように渡波中はあった。

電球4個分のバッテリーで暮らす避難所

訪れたのは4月6日の夕方。校庭には流されたクルマが無残な姿で転がり、校舎の時計は3時58分で止まっていた。すぐそばは海。津波は校舎の2階部分も打ち抜いた。人が住んでいるとは思えない校舎の3階に、約60人ほどの避難者が暮らしていた。

印象は「暗い」。10日現在も、自家発電機や電源車はなく、東北大学の高橋英志准教授が石巻市に提供しているバッテリーがあるだけだ。4つの電球まで電線を伸ばし、わずかな明かりを午後5時30分から午後9時まで灯す。それ以上は持たない。石巻市の職員1人のみが支援者として常駐し、1日1回の交代のタイミングで充電されたバッテリーを持ってくる。

給水車からの水は被災者自身が3階までバケツリレーをして運ぶ。その貴重な水を使って被災者がトイレ掃除や自炊を行う。もちろん、風呂もテレビもない。食料物資は配給されているが、1日2食が続く。10日の夕食は、自炊した味噌汁におにぎりとパン。おかずと呼べるようなものはない。ジャージ姿で泊まり番を務めていた石巻市職員の末永英久氏はこう言った。

「電池がほしいですね。欲を言えば自家発電機やお湯をためておくポットも。とにかく電気と水道がないのが不便だし、衛生状態が気になる」。交代した別の職員は、複雑な胸中を明かした。「避難所運営も大事だけれど、正直、復興に向けた公共業務を優先させたいというジレンマもある。ボランティアの方に見ていただければ、本当に助かる」

バラエティー番組を映す液晶テレビ

じつは渡波中の前を通る国道をわずか1.5キロメートルほど東へ行ったところにある渡波小学校の状況はまったく異なる。ここも津波の被害に襲われたが、約700人が暮らす大規模避難所で、早くから自衛隊やボランティアらによる清掃や炊き出しなどの支援活動が進んだ。4月4日には常駐しているNGO(非政府組織)が子ども向けの「プレイルーム」を設置し、7日はタレントの田中義剛さんらが訪れ、生キャラメル菓子やTシャツなどを被災者に配った。

渡波中から西に約9キロ、クルマで20分ほどの距離にある避難所、青葉中学校の支援も手厚い。ピーク時は1000人以上、訪れた時は700人弱が体育館や教室で暮らしていた。教職員と、神奈川県などから派遣された職員が避難所運営を切り盛りし、日本看護協会から派遣された3~4人が衛生面や医療面の世話を見ている。校庭には自衛隊の炊き出し車や米軍が設置したコンテナ型のシャワー設備が並び、兵庫県西宮市内の小学生らが贈った約50匹のこいのぼりがたなびいていた。

青葉中はやや内陸部にあるため、津波の被害は及んでおらず、電気は復旧済みだ。夜でも明るい玄関の下駄箱前には大型の液晶テレビ2台が置かれ、バラエティー番組が映されていた。そのそばには衣料品が山のように置かれ、いつでも自由に選ぶことができる。直前に暗い渡波中を訪れていただけに、そのコントラストが際だって見えた。

震災翌日に入院中だった夫を停電の影響で亡くし、今は単身で暗い渡波中に身を寄せる73歳の女性に「渡波小や青葉中はもっと恵まれていますよ。移らないんですか」と聞くと、こう答えた。「そうなんですか?知りませんでした。でも、最初に比べれば恵まれた状態。水もご飯も明かりもなかった。今はラジオが聴けて、わーうれしいなって……」

阪神大震災の教訓生かせず

こうした小規模な避難所こそ、NGOやNPO(非営利組織)などのボランティアが網の目のように支えているのかと思いきや、そうはなっていない。彼らですら、大規模避難所へと吸い寄せられるように向かう。

「マスコミの報道に偏りがあったため、よく報道された避難所にはボランティア、救援物資が多く集まるなど、避難所間の格差が生じた」――。内閣府が2000年にまとめた「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」の「避難所の運営と管理」という項目に、震災支援の教訓としてこう記されている。そして、参考文献からの引用が続く。

「テレビ・新聞の各社が毎日のようにやってくるようになった。新宿サリン事件が起きてしばらくは全く来なくなったが、その後も一部の新聞社は毎日のように取材にやってくる。その避難所では大変よい対応をしてくれた。おそらくマスコミ報道を見て、遠方からもボランティアが来たり、義援金が送られてきたりした」。今回の震災も、同じことが起きている。

ベイサイドアリーナは当初から被害が甚大かつ孤立地域とされ、特に注目を集めた。NHKなどがいち早く到達し、映像を送り始めると各社も続く。今では、テレビ各局の中継車が常駐し、連日、多数の報道陣がつめかけている。ほかにも、岩手県釜石市の釜石高校、陸前高田市の第一中学校、宮城県気仙沼市や女川町の総合体育館といった大規模避難所に集中した。

「避難所の皆さんは厳しい生活を送っています」。そう報じられると、ボランティア団体や芸能人が支援に入る。訪れた人は「まだまだ継続的な支援が必要」とマスメディアやブログなどを通じて訴える。そこにまた、支援が集中する。一方、渡波中のような目立たない避難所は、気づかれないまま、ますます埋没していく。

阪神大震災の教訓が指摘するように、同じ論理で救援物資の偏在も生じている。ベイサイドアリーナには早くから、全国から多くの救援物資が届いた。施設で一番大きな体育館(アリーナ)を避難者の就寝場所ではなく、主に物資保管庫として利用している。にもかかわらず、食料から生活用品まで大量の物資がうずたかく積もり、収容能力の限界に達しつつあった。

流通の血管がつまり、物資が偏在

大規模避難所は物資を一時保管して、周辺地域に分配する「ハブ」として使われることが多い。ベイサイドアリーナは南三陸町でその機能を果たしている。まだ道が完全に復旧していないなか、大型トラックが町内に45カ所ある全避難所を回って物資を分配するのは非現実的で、効率も悪い。そこで、物資はまず中規模避難所に分けられ、そこからさらに小さな避難所へ"毛細血管"を伝わるように配分されている。だが、4月最初の週末あたりから血管がつまり始めたという。

大型トラックに加えて、小型のトラックやバン、自家用車に支援物資を積んだボランティアが連日、集中した結果、ベイサイドアリーナには搬入待ちの列ができるようになり、1~2時間待ちも珍しくなくなった。物資の搬入搬出や仕分けの作業は、基本的に被災者自身が行っており、各避難所からの要請を受けて、町や自衛隊、ボランティアなどが配送している。

作業を手伝っている避難者の男性(29)は、こう話す。「集団移転などで手伝う被災者が徐々に減っているため、人手が足りていない。高校を出たばかりで就職先を失った被災者がトラックの誘導をしていて、運転手に責められることもあった」

震災4週間目に近いある日には、衣類や食料などの支援物資、計20トンを積んだ5台のトラックが搬入を拒まれた。そのため、中規模避難所の歌津中学校へと回ったが、すでにそこも満杯で入らず、結局、近隣にある自治体の倉庫に置かせてもらったという。

「いつの災害も物資の集積場に溜まり、そこから外に出ない」

「いつの災害もそう。物資の集積場に溜まり、そこから外に出ない。新潟県中越沖地震の時も、柏崎市役所に物資が集中して、途中から『もう送らないでくれ』と発信した」

そう語るのは、南三陸町を中心に支援活動を続けている岐阜県議の川上哲也氏(47)だ。3月11日の震災当夜に支援物資を積み、遠く飛騨高山から東北へ出発して以降、片道約1000キロの道のりを5往復した。3月17日には震災後、初めてまとまった量の燃料、灯油3000リットル、軽油1000リットルを南三陸町まで届け、佐藤仁町長から感謝された。

川上氏は新潟県中越沖地震の際も同じように支援活動をしており、物資が滞留する教訓を知っていた。だからこそ、初期の段階で町役場に「物資は出すことが課題。配送に人的リソースを割きましょう」と提案したが、現場に手が回ることはなかった。

避難所間の格差、物資の偏在。過去の教訓がふたたび顔をのぞかせているのは、これだけではない。財団法人阪神・淡路大震災記念協会がまとめた「平成11年度 防災関係情報収集・活用調査(阪神・淡路地域)報告書」に、こうある。「物品が役所からたくさん来たが、外でテントを張っている方、全半壊の家に無理やり住んでいる方がいるのに、学校にいる方だけが避難者だという感覚をもってしまったので、その他の方が非常に困っていた」

トイレが不便、でもぜいたくは言えない自宅避難者

今回の被害は、ほぼ津波によるものだったため、震源地に近い内陸部や沿岸部でも高台にある住宅の多くは無傷で残った。そうした被災者は、最初は避難所にいたが、徐々に自宅へと戻っている。ただ、家はあっても水道・電気・ガスがなく、ガソリンも不足しているため遠方にも行けず、困窮している自宅避難者はかなり多いと推測されている。

小学校5年生になる娘を連れ、ベイサイドアリーナまで配給をもらいに来ていた自宅避難を続ける女性は、こう話した。「トイレが一番大変。地域に仮設トイレもあるけれど、夜は真っ暗だし数百メートル歩かないとならないので、怖い。同居するおじいさんが、仮設トイレにたどり着くまでに間に合わなかったこともあった」

女性が住む地域の各家庭には、行政から小型のソーラー充電式の照明が配られたという。携帯電話の充電もできるようだが、接続するプラグはついていない。「買いに行っても売っていない。携帯は夜はもったいないから切っている」

ベイサイドアリーナであれば、NTTドコモなど携帯電話各社が充電サービスを提供しており、日中いつでも充電できる。トイレもすぐそばにある。あたたかい炊き出しが出れば、その場で分かり、いただける。それが、内田さんにはできない。でも、声は上げない。「私たちは、家があるだけ幸せなので、ぜいたくは言えないんです」

大規模避難所への支援が十分というわけではない

もちろん、ベイサイドアリーナや渡波小、青葉中といった大規模避難所の物資や支援の手が十分というわけではない。継続的な支援が必要だということは自明で、大規模避難所にはそれなりの悩みもある。

例えばベイサイドアリーナでは、多目的ホールなどからあふれた被災者が施設入り口から伸びるすべての通路に毛布を敷き、高さ45センチメートルの段ボールで間仕切りしただけの環境で過ごしている。関係者がせわしなく脇を通る衆人環視の状況は、ストレスを募らせる要因になる。搬入搬出作業を手伝っている被災者の疲労もピークに達しつつある。

ただ、末端まで物資がスムーズに流れておらず、支援が行き届かない空白地帯が放置されていることも事実。問題の根源ははっきりとしている。すべての情報が点で散発的に出ており、面でとらえた被災地の声が、支援する側にリアルタイムで届いていないことだ。支援する側の情報武装は整っているにもかかわらず……。

「現地からの情報が予想以上に入ってこない」

「現地からの情報が予想以上に入ってこない。ボランティア希望者の割に活動の場が少ないという需給ギャップが生じている。これからが本当に一般のボランティアが必要となる段階なのに、なかなか現地のニーズが上がってこず、現地の受け入れ体制も整っていない。今はボランティア意識が高まっているが、そのうちに薄れていくのが怖い」

こう指摘するのは、被災地支援に関する情報を共有するポータルサイト「助けあいジャパン」を立ち上げた佐藤尚之氏だ。助けあいジャパンは、被災地におけるボランティアのニーズを人手を使って集約・整理する「ボランティア情報ステーション」を都内に開設。これらの情報を全国からあがる支援の手に提供している。ところが、マッチングは思うように進んでいないという。

物資と自発的にボランティアとして赴く人が「見えている」ところに集中する結果、支援漏れや物資の偏在が生じる。一方で、被災地のニーズが見えないがゆえにさらなる支援を投入できず、問題が解消されないという負のスパイラルが生じている。情報の断絶が、すべてのボトルネックとなっているのだ。

では、誰が被災地のニーズを的確につかみ、情報発信すればいいのか。残念ながら、マスメディアの報道だけでは不十分だ。あらゆるメディアがくまなく各所から今を伝えようとしている。ただ、より多くの声を拾うという意味で、マスメディアが大規模避難所に集まるのは必然であり、2400カ所の避難所を面でカバーして、リアルタイムにニーズを伝えることなど、到底できようもない。この記事の内容も所詮、いくつかの点を集めたものであり、すでに陳腐化している可能性も高い。

情報収集と発信を被災地の現場に求めるのも、酷だ。被災地はいまだに「情報弱者」であり、情報武装をする余裕もない。

「各避難所から連絡が入るのを待っているだけ」

被災地では、各地の社会福祉協議会が中心となってボランティアセンター(VC)が設置されている。ここが、各避難所や自宅避難者などのニーズを吸い上げ、ボランティアを受け入れる役割を担っている。ところが、社会福祉協議会の情報網やインターネットなどを通じて、ボランティアの募集が全国にかかることはいまだに少ない。

例えば、南三陸町災害VCのホームページを見ると、4月1日に「募集するボランティアは、4トントラックと運転手さん(1日4~5台)。ガソリン代は町で負担します」という掲示があったきり、更新はなかった。次に情報が出たのは4月6日と15日で、数日前に現地で発行された「かわら版」のPDFが掲載されたのみ。内容は「災害ボランティアセンターって何 ?」といった紹介文や公式情報などが中心で、具体的なニーズに関する情報は乏しい。

南三陸町災害VCは、ベイサイドアリーナの駐車場の一角に構えたプレハブ小屋とテントを本拠地としている。何をしているのか見に行くと、訪れた個人ボランティアに登録とボランティア保険の加入をしてもらい、仕事があれば呼び出すという作業をしていた。ボランティア登録者数は延べ500人を超えているにもかかわらず、例えば4月9日の活動実績は新規が18人、継続と団体が16人ずつの計50人。作業内容は主に、炊き出しや物資の運搬だった。

「Youth For 3.11」という学生ボランティア団体の一員として4月2日から1週間、主に南三陸町でのボランティア活動に参加した東京大学大学院の奈良悠子さんは、南三陸町災害VCを通じて、写真を拾い集め泥落としをする「思い出探し」や入浴補助といった作業を手伝った。その経験をもとに、こう指摘する。

「VCでは、各避難所を回ってニーズを吸い上げるというより、各避難所から連絡が入るのを待っているだけの姿勢のようでした。例えば志津川小学校では、被災者300人に対してボランティアは1人と不足しており、ニーズがないわけではない。家が残る地区では、がれき撤去や老人のご用聞きなど、ボランティアはいくらいても足りません」

身を粉にして働く被災地のスタッフ

情報武装も進んでいない。南三陸町災害VCには、数台のパソコンがある。それで、かわら版も作り、毎日、掲示している。だが、取材した4月7日時点で、ネットには接続されていなかった。近県の社会福祉協議会から応援に来たという男性スタッフに理由を聞くと、「電力はそんなにない。機材もなく、そんな指示もない」との答えが返ってきた。

だが、南三陸町災害VCが手を抜いているわけではない。VCは原則、「事前に電話で登録して、募集があった時に来ていただく」としているが、募集がなくとも、自分の判断で現地に赴く一般ボランティアは多い。その日の仕事を何とか探して、彼らを割り当てるだけで手一杯となっている。

物資の分配も、同じ事情でままならない。南三陸町にある45カ所の避難所への配分は、原則、各避難所をまとめる運営者からの要望を受けて行っている。だが、ある小規模な避難所の運営者は「何があるか分からないのに要望は出せない」と言う。物資が集中するベイサイドアリーナであっても、搬入搬出の記録はノートで行っており、リアルタイムに物資一覧が外部へ公開されているわけではない。南三陸町を中心に支援活動を続ける前出の川上氏は、こう擁護する。

「町職員はスタッフがかなり亡くなっているし、身内が亡くなった方も大勢いる。そのなかで、集団移転も仮設住宅もやらなければいけない。身を粉にして働いている」。被災者自身も、目の前の仕事に対して必死で働き、日々を生き抜いている。1日の作業が終われば誰もがくたくたになり、また次の日を迎えている。

「ツイッター? 何ですか、それ」

要するに、ニーズを掘り起こして精査し、情報を発信するまでの余裕が被災地にはない。それは、普段から情報ツールを使いこなしているボランティアが現地に入ったとしても同じだ。

ニーズをつかめば、ボランティアはその場で支援活動に入る。ほかを俯瞰して見る暇はない。今、現地に入っているボランティアは、移動手段や燃料、食料を自分で賄う必要があり、活動時間の限りもある。自らの拠点に帰ってから、現地で聞いたニーズを報告しても、その頃には別のボランティアが入り、解決している可能性がある。

震災直後、首都圏を中心にツイッターなどのソーシャルメディアが活躍を見せたように、支援する側と避難所が、直接ネットを通じてつながることも難しい。避難者には高齢者が多く、若年層であっても「電波が弱く、電池ももったいない。ツイッターの文化も浸透していない」と、ベイサイドアリーナで避難生活を送る前出の男性は話す。

そうした環境の中で出てくる情報は、不確実であったり、時間経過で事情が変わってしまったりすることも多い。4月3日、あるつぶやきが瞬く間にツイッターを駆け巡った。被災地支援に関するつぶやきを必死に集めていた女性のつぶやきを、ある企業経営者が数十万人のフォロワーに回覧した。内容は、特定の地域が孤立状態にあり物資が足りていない、というものだった。

そこは高台にあり、津波被害は免れた地域。もしやと思い、3日後の6日に名指しされていた施設を訪れると、ちょうど住民同士で物資を仕分けている最中。現場を仕切っていた60歳代の女性に話を聞くと、意外な返事が返って来た。「ツイッター? 何ですか、それ。物資は2週間ほど前から十分に足りていますよ。困っていること? 特にありません」

不確実なつぶやきに翻弄

被災者や避難所からの直接の情報発信に頼るのは、不均衡を助長する危険もある。テレビによく映る避難所に支援が集中するのと同じことがソーシャルメディアでも起きかねない。小規模なある避難所からツイッターやウェブサイトを通じた情報発信を試みようとしている30歳代の男性は、こう言う。

「ツイッターを見ていると、事実に基づかない善意の勘違いや大げさな表現に、遠い場所の人たちが翻弄されていないかと不安だ。誰かが物資が足りないとつぶやくと、そこに視線が集中する。物資が足りないと言った者勝ちで、奪い合いになってしまわないかと危惧している」

先に紹介した『阪神・淡路大震災教訓情報資料集』は、地震発生から1カ月目以降の教訓として、「避難所におけるボランティアの活動は有効だった。しかし、避難所運営がボランティアにまかせきりになった避難所では、被災者の自立が遅れる傾向があった」と言及している。避難所からの情報発信をうのみにした支援をしては、こうした課題が再燃してしまう可能性もある。

中心部が壊滅的な被害を受け、延焼も続いた気仙沼市。その南部に位置する本吉町には、海沿いに小さな集落が点在しており、100人以下が寝泊まりする小規模避難所が多い。そのうちの1つ、浜区多目的集会所を切り盛りする気仙沼中央公民館副館長の及川正男氏(54)は、「この辺は地域性もある。つながりもある。まず自分たちがどう動くか。ただ、支援だけを受けて過ごすのはよくない」と話す。一方で、周辺のある避難所では「へき地は物資が届いていない」と訴える人もいた。

高まる「情報ボランティア」投入の動き

結局は、客観的な視点で調査でき、かつ情報発信や共有の能力に長けた外部の人間が被災地に張り付くしか、解決の方法はない。実際に、そうした「情報ボランティア」を投入しようという機運は、徐々に高まりを見せている。助けあいジャパンの佐藤氏はこう語る。

「情報をこちらから取りに行くしかない。ほかのボランティア団体などと連携し、網の目のように現地に人を張り付ける体制を模索している。もう待っているわけにはいかない」

ニーズを待たずして乗り込み、自らニーズを探って活動していく動きも確かに必要だ。だが、それができる自己完結力や資金力がある組織の数も動ける範囲も、限られている。被災地では仮設住宅の用地確保が難航しており、避難所生活の長期化が懸念されている。電気・水道・ガスのインフラ復旧も、見通しが立っていない。一般のボランティアも含めたオールジャパンで立ち向かわなければ、広範囲で長丁場の支援を乗り切ることはできない。

幸い、16年前とは違い、ネットやソーシャルメディアの発達で、支援する側の貢献意識はより高まり、ニーズと支援のマッチングをする情報基盤も整っている。あとは被災地に寄り添い、情報伝達の"ラストワンマイル"を埋めるだけだ。被災地では徐々にではあるが、自立・復興に向けた情報共有のプロジェクトも芽吹きつつある。情報ボランティアは、そうした被災地発のプロジェクトや、VCや行政などの情報武装にも、きっと役に立つ。

「大規模避難所においては、地域全体の物資の過不足や配送状況を管理するシステム構築が急務。運用は行政がすべきだけど、構築は大手IT企業などが手を貸してあげてほしい」。学生ボランティアとして南三陸町で活動した前出の奈良さんがそう言うように、企業による情報支援も必要とされている。

「迷惑かもしれないと思っても、飛び込んできてほしい」

南三陸町の中心、志津川地区からクルマで30分ほど南に行ったところに、長清水地区という小さな集落がある。震災後、単身赴任先の仙台市から妻と乳児が住む同地区へ戻り、集落の支援活動を続けている及川博道氏(34)は、こう訴える。

「何とかして1度でいいからかかわってほしい。この景色を共有してほしい。もうこっちはずたぼろなんです。自己完結できる方は、迷惑かもしれないと思っても飛び込んできてほしい。個人的には一軒一軒歩いてニーズを聞いて回りたい。その助っ人をやってくれるだけでもいい」

震災から早1カ月。されど、まだ1カ月。被災地支援の前に立ちはだかる情報断絶。面でとらえられないこの現状を放置して、早期の復興はない。

(井上理)

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