琵琶湖畔から大人気アプリ配信 クリエーターの素顔
「ネットのチカラ」第3部 冒険者たち(4)
インターネット経由で各種サービスやソフトを配信できる「クラウドコンピューティング」の普及を受けて、ソフト開発者が全世界に製品を安価なコストで提供できるようになった。アップルの多機能携帯端末「iPad」向けなどに電子書籍閲覧ソフト「i文庫」シリーズを開発する渚技研もその1社。大人気アプリはどのようにして生まれるのか。琵琶湖のほとり、滋賀県草津市に開発者を訪ねた。
i文庫シリーズは、渚技研がアップルの高機能携帯電話(スマートフォン)「iPhone」や「iPad」向けに配信している有力ソフト。著作権切れの作品を電子化して無償公開する電子書籍サービス「青空文庫」や、業界標準の文書形式「PDF」データの表示などに対応する。文章データを表示した画面を指で軽くなぞると本物の書籍のようになめらかにページがめくれる操作性などが支持されて大ヒットが続く。
1本800円のiPad向け「i文庫HD」は、アップルの配信サービス「アップストア」の人気ランキングで上位に入る常連だ。iPadユーザーの間では「常識」のソフトの1つだが、開発者の"素顔"はあまり知られていない。
本業はFA向けソフト開発
京都駅から東海道本線を東に約20分。琵琶湖にほど近く、立命館大学が「びわこ・くさつキャンパス」を構える南草津駅から徒歩十数分。地図ソフト搭載の携帯電話を片手にたどり着いた渚技研の本社は「倉庫」の中にあった。
社名が書いてある倉庫のドアをおそるおそる開けると、内部は新築マンションのようだ。「今年夏に改装したばかり」と渚技研の浅田康之氏が迎えてくれた。浅田氏は従業員2人の渚技研の代表をつとめ、i文庫シリーズを開発したクリエーターだ。
本業は地元周辺企業のFA(ファクトリー・オートメーション)向けソフトの開発。「プログラミングは昔からの趣味」で、2年ほど前に「iPodタッチ」向けに遊びでソフトを書いたのが、そもそもの始まり。その延長で1~2カ月ぐらいかけて開発したiPhone向けアプリ「i文庫」が予想外の大ヒットとなった。開発費は、ほぼタダ。浅田氏自身は「マーケティングなど1度もしていない」が、口コミで人気に火が付いた。販売本数は非公開だが、「アプリ配信の売り上げは、本業(のシステム開発の売り上げ)を大きく上回っている」という。
今や日本の大ヒットアプリの代表例となった「i文庫」シリーズだが、浅田氏の開発スケジュールは極めてカジュアルだ。
起床は8時。午前9時には自宅からすぐ近くにある倉庫兼オフィスに出社し、午後7時ごろに帰宅する。勤務時間中の大半は、本業であるシステム開発に費やす。午前中は取引先とのメールのやり取りや打ち合わせ。午後はシステム開発に7割、アプリ開発には3割程度を割く。「勤務時間中の本業はあくまでもシステム開発。アプリは気が向いたら手掛ける程度」だ。
アプリ開発が本格化するのは、帰宅後や休日。「ネットで趣味のサイトを見ながら改良したり、休日にはオフィスで音楽を流してビールを飲みながら開発することもある」など、今も昔も完全に趣味としての位置づけ。利用者から寄せられるメールでの要望に応えながら、コツコツと追加開発を続ける。
アプリの収入「宝くじみたいなもの」
アップルの配信サービス「アップストア」で販売される「i文庫」シリーズの売上金は、毎月銀行に自動的に振り込まれる。アプリ配信で得られる月々の収入は記事では公開できないが、一般のサラリーマンから見るとかなりの額だ。それでも「宝くじみたいなもの」と考え、"本業"をシステム開発からアプリ開発に切り替えることを検討したことはない。
浅田氏らが働く倉庫兼オフィスには、パソコンが数台。仕事上必要なサーバーも持つが、ネット回線などは家庭向けと同等で特別なインフラがあるわけでもない。「パソコン1台あれば、アプリ開発はどこからでもできる」
「僕は志が高い訳でもない。こんなにうまくいくなんて何かの間違い。(ソフトバンクの)孫(正義)さんにあったら絶対に怒られる」と謙遜(けんそん)する浅田氏。会社設立は「必要に迫られたから」であって、起業意欲があった訳でもないという。そんな同氏の成功は、優れたアイデアさえ持っていれば開発資金などに左右されずにヒット作を生み出す機会が平等に与えられる「クリエーター・デモクラシー」の幕開けともいえそうだ。
(産業部 田中暁人)