英ナショナル・シアター制作「ウォー・ホース~戦火の馬~」
驚異の人形遣い、馬が主役の反戦劇
舞台の宣伝コピーはたいがいアテにならないけれど、今度ばかりは違った。「奇跡の馬がやってくる」は本当の本当! 3人づかいの精巧なパペットが本物の馬に見えるばかりか、名優顔負けの感情表現までくっきり。かねて演劇関係者の間で語り草の、ロンドン発の舞台がお目見えしてみれば、なんと人間ドラマならぬ「馬ドラマ」だった。しかも、すれからしのシアターゴーアーもびっくりの反戦劇じゃないか。
馬は言葉をもたない。戦争の理由も是非も知らない。わけのわからぬまま、人間さまが勝手に始めた悲惨な戦争に駆り出されただけ。ところが傷つき、使用に耐えられなくなれば安楽死させられる。倒れ伏し、一個の物体として屍(しかばね)をさらすとき、馬のシルエットはこう告げているかのようだ。こんな不条理ってあるかい? 愚かな人間どもよ、いいかげんにしなさい。
今から100年前、史上初の世界戦争となった第1次世界大戦が舞台。戦死したのは人間だけではない、馬もまた(100万頭とか)。飛行機や大量殺戮(さつりく)兵器が登場し始めたものの、主流はまだ伝統的な騎兵戦。悲惨な白兵戦はドイツ軍志願兵の死を描いた映画「西部戦線異状なし」で有名だ。反戦運動の原点となった、あの西部戦線で、敵味方、英独双方の兵と行動をともにした馬の苦難を描いたのが、この舞台である。馬を主役にすることで、戦争そのもののむなしさを問いかける作劇が鋭い。
英国の片田舎で競売にかけられた子馬ジョーイを貧しい農家の子アルバートが愛情を注いで育てるが、駿馬(しゅんめ)となるころ第1次世界大戦が勃発、軍馬として激戦地へ。英軍から独軍へと渡り、最後は毒ガスで目を傷めたアルバートと奇跡の再開を果たす。スピーディーな英語劇(字幕つき)についていくのは正直、大変。が、休憩入れて2時間半の物語は単純といえば単純で、シーンのニュアンスをつかむだけでも濃密な時間が味わえる。見どころは筋にはなく、音、光、映像、煙などで五感を刺激する一場一場の迫力にあるからだ。
あっ、これは文楽もどきだ。子馬が出てきた瞬間、そうとわかる。首(主づかい)、前脚、後ろ脚の3人づかいで、精巧に敏捷(びんしょう)に動くのだ。とはいえ、違いもある。日本の人形の動きは様式化され、デフォルメがきいている。人間を超えた大きな力が乗りうつり、動かしているように見える。ところが、このパペットの馬は徹底的なリアリズム。本物の馬が躍り出てきたように感じられるのだ。日本の技を西洋のリアリズムで消化した表現に驚かされるばかり。
英国の著名な児童文学作家マイケル・モーパーゴの原作(1982年)を舞台化したのは、英国演劇の殿堂であるロンドンのナショナル・シアターだった。2007年に初演されたあと続演され、海外ツアーも繰り返されてきた。劇場準演出家のマリアン・エリオットとトム・モリスの共同演出もシャープだが、何よりハンドスプリング・パペット・カンパニーの制作した馬が圧倒的な存在感をみせる。11年には米ブロードウェイでトニー賞を5部門で受賞、スピルバーグが映画化に踏み切るきっかけとなった舞台としても知られる。
1981年にそのパペットのカンパニーを設立したエイドリアン・コーラーとバジル・ジョーンズは文楽の厳しい修行に感動し、パペットでも深い感情を表現できると確信したという。人件費を考え1人づかいから試作したが、うまくいかず、2人づかいでも不十分、3人づかいに落ち着いた。人形が江戸時代はじめに進化したプロセスを短期間でたどっているのが面白い。実物大に見える模造の馬があれだけ動くことから考えると、素材の軽量化に相当の苦心があり、つかい手の訓練もすさまじいものがあっただろう。
文楽でも馬やキツネが出てくるが、小さいし、動きも人形ほど細かくない。パペットの馬が手本にしたとみられるのはあくまでも人間の人形であり、その心理描写の妙をセリフのない馬の身ぶりに映し出す行き方だ。
倒れた馬からつかい手3人が離れ、静かに去る演出があった。生き物から魂が抜け、抜け殻(死体)となる。死の無常を濃厚に感じさせる人形浄瑠璃の手法が、この舞台に巧みに引用される。時折台本を手にした狂言回しのような男が見事なフォークソングの独唱をきかせるが、文楽でいえば床本を手にした太夫であろうか。しかけを重視し、人力のローテクで戦車を引きまわし、戦争の恐怖を極大化する演出も、人形浄瑠璃に通じる。棒の先にチョウチョウをつけて、ひらひらさせるおなじみのやり方も、形をかえて用いられる。
舞台は終始、闇。この暗さが張り子のような馬のシルエットに実在感を与える鍵だろう。一閃(いっせん)のような馬の動きが鮮やかな残像をつくる。ホリゾント(背景)に大きなヒビのようなスクリーンがあり、そこに戦場の風景などが映る。空が見えたとき、これは塹壕(ざんごう)の隙間から見た、戦士の悪夢のような劇なのだと感じられてきた。
横一列の兵が銃声や砲声とともにひとりふたりと倒れていくときの、耳を裂く銃声。田舎娘に思わず発砲する偶発性。舞台上の戦闘は次第に絵空事ですまなくなる。戦争とはつまり「殺す」ことであり、そのむなしさが虚空に満ちてくる。人や馬の遺骸が生々しい質感をたたえ、馬の息の根をとめるプロセスが入念だ。興奮する馬の蹄(ひづめ)の音、鼻息、いななき。ピカソの戦争告発画「ゲルニカ」を思わせる馬の姿態が目を刺激する。兵士、看護師などが横一列になって声を出し、闇から浮かび上がるシーンはミュージカル「レ・ミゼラブル」のラストシーンをほうふつとさせるもの。死者をして歴史を語らせる演出意図であろう。
北米ツアーのための舞台だが、俳優のセリフ術は見事。ただ声を至上とするあまり、単調なセリフ劇になる気味もある。英語劇でよく感じられることだ。その点、この「馬劇」は文楽の力を借りて西洋演劇に新たな可能性を開く試みだっただけに、表現の多彩さが際だつ。相似たことはミュージカル「ライオン・キング」のジュリー・テイモアや伝説の前衛劇団「太陽劇団」のアリアーヌ・ムヌーシュキンらもやっているが、ここまでパペットにこだわる例はまれ。
アルバートとジョーイの再会は、よくあるお涙ちょうだいの域をはるかに超える。地獄めぐりをへて、息もたえだえ。そこは英国演劇の味、苦みがきている。
(編集委員 内田洋一)
8月24日まで、東京・東急シアターオーブ。