「世界の主役」の数奇なキャリア バレリーナ・加治屋百合子さん (上)
「世界五大バレエ団」の中で、日本人として唯一主役を張るバレリーナがアメリカン・バレエ・シアター(ABT)のソリスト、加治屋百合子さんだ。中国国立の学校で育ち、カナダの国立バレエ学校から世界の才能が集うニューヨークへ。厳しい競争の中でも、ゆったりとしたたたずまいを崩さず、輝きを増してきた秘訣は……。
自分のありのままを受け入れて
バレエは肉体の美を極める芸術だ。日本人の体形もだいぶ変わってきたとはいえ、長い手足を持ち、小さな顔で舞台に登場しただけで映える欧米人に対するハンディは小さくない、と普通は思われる。
しかし、バレエ人生の初めから"国際舞台"で過ごしてきた加治屋さんの意識は日本人だからどうこうという枠の中から、とっくに抜け出ていた。
「もし、そういうコンプレックスがあったら、今踊っていないと思います。バレエは身体をそのまま舞台に出します。その部分を受け入れないと仕方がないのです」。中国でバレエを始めたときから、体形の違いは身にしみていた。だからこそ嘆くのでなく、いかに踊るかだけを考えてきた。
10歳のとき、父親の仕事の都合で上海に渡った。それまでいくつもの習い事をしていた加治屋さんに「こういうところもあるよ」と父親が写真を撮ってきてくれたのが、中国国立の上海舞踊学校だった。プロを目指し、体形などの厳しい審査を通った超エリートが集う場所だった。全寮制というところにひかれ、両親は「みんな同じ環境だから頑張れるかもしれない」と考えたそうだ。
「中国人のための学校」の厳しさ
一般科目を教える教室も併設されており、1学年15~16人で構成される。学費は国持ちだ。スポーツでも何でも、中国が国がかりで行うエリート教育は日本人には想像もつかないすさまじさだ。
世界に通用するプロのバレエダンサーを生み出すのが目的だから、生徒はもちろん、教師にかかるプレッシャーも相当なもの。結果を出すことを求められる教師は当然のように、好素材とみた生徒に目をかける。そんなエリートの園に、普通の子どもが入り込んでしまったわけだ。
国立学校は留学生も採用していたが、高校を卒業したくらいで入学するケースが大半。10歳という年齢には中国側もびっくりしたのだろう。両親の骨格まで触ってみられたうえで「3カ月と続かないからやめなさい」と忠告された。それでも入学が認められたのは「国内の生徒と違って、学費を払ってまで学びたいというのだから、断る理由はない、ということだったのでしょう」
実際、学校では中国人でないこと、エリートでないことの不利に直面した。なぜ、私はクラスメートと同じに扱ってもらえないのか――。
ハンディ、練習で克服できると信じ
ほとんど"飛び入り"に近かった留学生が、厳しい選考を経て入った中国人と同じに扱われると思うのが無理なのだが、子ども心にそこまでの事情はわからない。
しかし、その立場を苦に思ったことはない。
「もっと頑張ればいい、そうすれば認めてもらえる、と。体形の不利も練習で克服すればいい、と思っていました。人生経験として何か得て戻ってこられればいいな、という程度の気持ちだったのですが、一度始めたことを途中で投げ出すのも嫌だったのです」
「つらかったらすぐに帰ってきなさい」と話した両親も含め、だれも最後まで続けられるとは思っていなかった。だが結局、ローザンヌ国際バレエコンクールのスカラシップ(奨学金)を得るまでの6年間を全うすることになる。
「子供って純粋ですよね」と笑う。その無邪気さを今でも保ち続けているようにみえる。
表現力磨かれた中国民族舞踊
中国の学校ではまず、しっかりした基本動作が身についた。中学くらいの年齢になると、コンクールが盛んな日本では1人で踊るバリエーションに取り組んでいくが、中国ではなかなか応用に移らなかった。
基礎とともに今でも大きな財産になっているのは表現力だという。舞踊学校は決してバレエ専門ではなく、中国の民族舞踊がカリキュラムの3分の2を占める。
「バレエクラスの子も、民族舞踊が必修です。民族舞踊は感情を出すことが何より重要ですから、これでもか、というくらい感情を出すことを覚えさせられます。あの訓練は良かったですね」
13歳を過ぎて、コンクールに出るようになったときプロを意識し始めた。その登竜門としてのローザンヌ国際バレエコンクールがあった。
出場できるのは1つのバレエ学校から4人まで。日本人留学生が好成績を残しても、中国国立の学校の教師の点数は上がらない。代表を選ぶなら中国人、というムードになっていたのは仕方がない。
しかし、加治屋さんにとっては人生がかかっていた。父親を通じて学校に申し入れると、では選考会を開きましょう、ということになった。中国人より少し上、という程度ならまず選ばれなかったはずだが、すでに圧倒的な実力が身に付いていたのだろう。日本人を選んだ結果に、どこからも異論は出なかった。
各地から選ばれてきた生徒の中には、素材としてはよくてもあまり一生懸命でない者がいた。「もったいない。なぜ努力をしないのだろう」と、そばでみていて歯がゆかった。さほど努力もしていない生徒が、先生に認められて手厚く教えてもらっていることにも納得できなかった。そうしたもやもやのすべてを「もっと頑張ろう」という発奮材料に変えた。「バレエに対する気持ちで負けていなかった、ということかもしれませんね」
"中国代表"として出場したローザンヌで、日本人に日本語で話しかけると、びっくりされた。中国のエリート以上に中国の教えを吸収し、その空気に同化していたということになるだろう。
自由の大地での戸惑い
ローザンヌでスカラシップを受賞した加治屋さんは当初、欧州のバレエ学校への留学を考えたが、その年はたまたま女子が多く、希望通りにはいかなかった。
ローザンヌのコンクール事務局に相談すると、カナダの国立バレエ学校を紹介してくれた。「努力した人が認められるような学校を」という要望に沿ったものだった。ちなみに同じコンクールで受賞した中国の生徒に海外留学は許されず、3年間は国を離れることができなかったという。留学生であったことが、このときばかりは幸いした。
カナダは万事におおらかだった。中国の学校のように敷地内のそこかしこに体重計が置いてあるわけでもなく、練習を強制されることもなかった。
自由の大地、カナダ。ところがほとんど中国育ちともいえる加治屋さんはその自由に不安を覚えた。
練習づめの毎日がうってかわり、踊れるのは授業だけ。課外で練習する場所も時間もなかった。
中国では寮の門限が過ぎてしまうほど練習していたのに……。現地の舞踊大学に進んだ同期生たちはもっと練習しているはずなのに……。そう思うと焦りが募るばかりだった。思いあまって校長に直訴したのが、上級のクラスへの異動。電子辞書を片手に中国語、日本語、英語を翻訳しながらの談判だった。今でも校長に会うと、懸命に訴えたあのときの思い出話になる。
最高の舞台、ニューヨークへ
さて学校を出たあと、どうするか。1つの進路としてはカナダ国立バレエ団があり、オーディションを受け、内定をもらっていた。しかし、もう1つの舞台へのあこがれが急速に膨らんでいた。世界五大バレエ団のひとつであるニューヨークのABT。
国境を挟んでいるとはいえ、学校のあるトロントとニューヨークは飛行機で1時間余り。トロントは"ミニ・ニューヨーク"ともいわれるほど文化的にも近い。
学校の友人が繰り返しABTのDVDをみて、熱く語っている。そんな姿をみているうちに「プロになるならABT」との思いが断ちがたくなっていた。
学校の卒業生がABTのオーディションを受けるというので、学校の推薦を受けてついていった。しばらく連絡がなく、あきらめて学校の在籍延長手続きを進めていたところに合格の通知が届いた。
ABTの下部組織、スタジオカンパニーへ。プロ野球でいうと2軍のようなもので、毎年16歳から20歳までの男女6人ずつが採用され、そこで認められれば晴れてABTという"メジャー"に昇格できる。そのスタートラインに立てた。
「やっぱり"アメリカンドリーム"ってあるんだなと思いましたね。夢を持って来た人を受け入れてくれる」
「努力は必ず報われる」との思いを改めてかみしめた。中国で培われた信念が、世界の舞台芸術の中心地で実を結ぼうとしていた。
(米州総局 原真子)
ABTはロシアのボリショイ、マリンスキー、パリ・オペラ座、英国ロイヤルバレエとともに、世界五大バレエ団と呼ばれている。
(※)「バレリーナ・加治屋百合子さん(下)」は26日(月)に掲載します。