ビッグデータでケガ防げ 「選手の危機」に技術で挑む
橋口寛 ユーフォリア代表取締役
リオ五輪もいよいよ大詰めを迎えているが、こうしたひのき舞台でのアスリートの活躍を「明」とすれば、「暗」の最たるものがケガである。将来を嘱望されながら、ケガで夢をかなえられなかったアスリートは数知れない。
「Injury Prevention(ケガの予防)」。アスリートの多くが抱えるケガを、ビッグデータなど先端のテクノロジーを用いて予防する取り組みが、今、世界で進められている。先頭を行くのはスポーツビジネス大国の米国である。
筆者は2016年3月と6月に渡米し、カンファレンスに参加すると同時に大学などの研究機関やスポーツ関連のベンチャー企業、スポーツチームなどを訪問した。多くの場所で異口同音に聞かれたのが、「アスリートの健康をいかに守るか」「アスリートのケガをいかに予防するか」という言葉だった。
例えば、GPS(全地球測位システム)などさまざまなセンシングデバイスによって選手の走行距離をはじめとするパフォーマンスを可視化することは、日本では戦術面での貢献を評価するために実践されているが、米国では戦術面と同等の力点がケガの予防に置かれていることが多い。
脳震蕩(しんとう)の要因となる脳への衝撃や、膝のケガの原因となる着地衝撃をセンシングして可視化したり、アスリートの疲労度などを可視化するための取り組みも進んでいる。米国スポーツ界における、ビッグデータを用いた「Injury Prevention」の取り組みを紹介しよう。
MLBで99件のケガ発生を防止
「我々は米メジャーリーグのMLB球団へのアドバイスを通じて、2015年の1年間に主に肘とハムストリング(人間の下肢後面を作る筋肉)のケガ99件の発生を未然に防ぐことに成功した」「MLBのある球団では肘の靭帯の手術件数を、契約前年の25件から3件に激減させた」
米SPARTA Science CEO(最高経営責任者)のPhil Wagner博士は、こう胸を張る。同社は7年前に米スタンフォード大学出身者を中心として創業したスポーツ関連ベンチャー企業。アスリートのパフォーマンスを高めることと、ケガを予防することを目的として科学的アプローチを用いたソリューションをプロチームなどに提供している。
顧客はMLB以外にも、米プロアメリカンフットボールのNFL、米プロバスケットボールのNBA、スーパーラグビーに所属するチームなど多岐にわたる。
Wagner氏が「未然に防ぐことができた」と主張するケガの件数をどのように数えるかについては議論のあるところだが、彼の話しぶりからはMLB球団との間に"何らかの基準"に対する合意があることがうかがえた。
ケガによる損失、MLBで700億円
MLBがこうした企業と組んで、選手のケガに対する取り組みを進めている背景には、ケガによる経済的損失という決して無視できない事情がある。
米国の主要スポーツでは選手の年俸高騰に伴い、ひとたびスター選手にケガが発生したときの経済的打撃が大きい。2013年度のケガによる経済的損失は、MLBで約6億6500万ドル(約700億円)、NBAで約3億5800万ドル(約400億円)に上るとの試算もある。いずれも莫大な金額である。
アスリートのケガによる悪影響は、チームの成績にも、興行面にも直結する。そして何よりもケガがなければ長く活躍できたはずの選手寿命を縮めてしまう。
かつては米国においても、「アスリートにとってケガはつきものであり、一定の割合で発生することは避けられない」とする考え方が支配的だった。しかし、今や「多くのケガは避けられる」という考え方へと変わってきている。米国の関係者からは、経験則や目視だけでは分からないケガの原因を、「ビッグデータ解析」を通じて何とか見つけ出してやる、という執念のようなものが伝わってくる。
予測は垂直跳びから主観データまで
選手のケガを予測する方法はさまざまだ。本当に重要な企業秘密についてはさすがに教えてくれないが、筆者が参加したスポーツアナリティクス(解析)をテーマにしたカンファレンス「MIT Sloan Sports Analytics Conference(MIT SSAC)」(2016年3月11日~12日開催)では、多くの方法論が開示された。
ユニークだったのは「フォースプレート」と呼ばれる板の上で選手に垂直跳びをさせて、その時の重心の移動や力の伝わり度合いからケガのリスク増大を発見する、という方法論だ。これはSPARTA Scienceも導入している。
この方法では、「かがみこみ(Load)」「ジャンプ(Explode)」「着地(Drive)」の3分類でその選手の重心移動や力の伝わり具合を測定する。平時におけるそれを選手の「ムーブメント・シグネチャー」と呼び、データを保存しておく。
そして、シーズン中に定期的に同じ動作を測定していくと、筋肉の張りや関節の痛みなどが発生した時には通常の「シグネチャー」との間でスコアのかい離が出てくる。そのかい離が一定のしきい値を超えた時にはケガの発生確率が有意に上がるためアラートを出す、という方法だ。
体の左右のバランスが崩れた時にもケガの発生確率が上がるので、常に左右の重心バランスを測定する、という方法論もある。重心の動きをセンシングする先進的手法と、目を閉じて片脚立ちをする古典的手法の両方を使う点が興味深い。
野球の投手の場合、投球数がやはり肘と肩のケガに大きな影響を及ぼす変数となる。しかし投球数の絶対値よりも、通常の平均投球数(ベースライン)からの上方かい離が大きい時が一番危険なのだという。
例えば、毎日100球投げている投手が110球投げた時よりも、毎日50球投げている投手が90球投げた時の方が危険だというわけだ。これは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有投手のように、過去に「トミー・ジョン手術(肘の靱帯断裂に対する手術術式)」を受けた投手とそうでない投手の投球数を一定期間分析した上で導いた予測モデルとのことである。
バレーボールでは膝の障害を予防するために、ウエアラブルデバイスでジャンプの高さ・回数・着地衝撃を計測し、その蓄積が一定のしきい値を超えた時点で練習の休養をアドバイスする、という事例もあった。危険なファクター1つにつき、「1ストライク」と表現し、それが「3ストライク」となった段階で、ヘッドコーチに対してアラートを発するという。
もちろん、睡眠の質や疲労度、ストレス度など選手の主観値であったり、血圧や脈拍、SpO2(血中酸素飽和度)、HRV(心拍変動)、唾液や尿などを用いた各種バイオマーカーの測定と分析も実施されている。
DNA検査も既に導入され始めており、今後はさらに増えていく。既に、高精度の予測モデルが構築された競技別やポジション別の分析もあるが、MIT SSACではそれに加えて今後は人種の違いに対応した予測モデルも作っていく、との発言もあった。
NFLが脳震蕩問題で10億ドル支払い
近年、選手のケガ予防のなかでも、特に重要性が高まっているテーマが脳震蕩だ。背景には、2013年にNFLの元選手約4500人が、NFLを相手取って起こした集団訴訟がある。
「NFLは脳震蕩が長期的に脳機能に与える影響を不当に隠匿(いんとく)し、選手を保護しなかった」として起こされたこの訴訟は、NFL側が提示した和解案を、フィラデルフィア第3連邦巡回控訴裁判所が2016年4月19日に支持したことで、ようやく決着に至った。その和解案とは、NFLが総額約10億ドル(約1060億円)もの巨額の賠償金を支払うというものだ。
米国では2015年、その名も「Concussion(脳震蕩)」というNFLにおける同問題を題材にした映画が公開されたこともあり、この問題への意識が日本にいると想像もできないほど高まっている。その証左に、米国では子供たちにアメリカンフットボールをやらせたがらない親が増えているという。競技やリーグの中長期的な発展という観点から、多いに憂慮すべき事態が起きている。
衝撃を可視化する帽子
NFLは2013年3月、米GeneralElectric(GE)と共同で脳震蕩問題の解決を目指すオープンイノベーション型のプロジェクト「Head Health Challenge」を立ち上げた。これは両者による5年間、予算規模6000万ドル(約64億円)の「Head Health Initiative」の一つである。
このプロジェクトは現在も進行中であるが、すでにさまざまなソリューションが生まれている。例えば、ヘルメットやマウスピースに加速度を測定するセンサーを取り付けるなどして頭部への衝撃を計測し、脳震蕩に対するリスクが高まったと判断した時には選手を強制的にフィールド外に出すような運用がなされ始めている。
米国東海岸の名門8校からなるアイビーリーグでは、ダートマス大学フットボール部が2010年ごろに「練習における対人フルコンタクトを全面禁止」とし、その代わりに「リモコンで動くロボットタックルダミーを用いてトレーニングする」という衝撃的な方針転換を図った。
各方面から選手のタックル力や競技力の低下を憂慮されながらも、ダートマス大学は2015年シーズンにアイビーリーグで優勝した。この結果を受けて、アイビーリーグ全加盟校8大学は2016年3月、「練習における対人タックル禁止」の方針を採用することを発表した。MIT SSACの直前のタイミングとなったこの発表は、同カンファレンスでも大きな話題となった。
アイビーリーグのように対人タックルの全面禁止とまでは至らずとも、GPSが吸い上げる選手の急減速データからタックル回数を測定し、回数を制限しようという取り組みもある。
今年のMIT SSACへの出展はなかったが、大手スポーツ用品メーカーもこの問題に取り組んでいる。例えばドイツadidas(アディダス)グループ傘下のReebok(リーボック)は、「CHECKLIGHT」と呼ばれるセンサー内蔵のキャップ型帽子を販売している。脳震蕩そのものを診断するツールではないが、これをヘルメットの下にかぶることで、頭部に大きな衝撃を受けた時に外部から見てそれが分かるようにライトが点灯する。衝撃による選手への影響の拡大を防げる可能性がある。
10歳以下の子供はヘディング禁止
脳震蕩への取り組みが進められているのは、アメリカンフットボールに限らない。例えばサッカーでは2015年、米サッカー協会が医事委員会の勧告に基づき、10歳以下の子供はヘディングを禁止、11歳~13歳の子供にはヘディング回数を制限する規定を発表している。なお、日本サッカー協会や欧州の各協会では、医事委員会等が本件について子細に検討をした結果、現状では同様の対応を取っていない。
2015年、MLBで活躍する青木宣親選手が試合中に死球を受け、長期間にわたって脳震蕩の影響に苦しんだように、「コリジョン(衝突型)スポーツ」と呼ばれるスポーツ以外の競技にとっても、この問題は決して対岸の火事ではない。
今後、センシングデバイスの小型化・高性能化に伴って、さまざまなスポーツにおいて脳震蕩予防への取り組みは進化していくだろう。日本のスポーツ界にも、その影響は間違いなく波及するに違いない。
意味ある予測モデル構築に3~5年
以上、ケガの予防に対する先進的な取り組みを見てきたが、解決に向けた道のりは長そうだ。MIT SSACで開かれた"Can You Really Predict Athletic Injury and Performance?"(スポーツにおける怪我とパフォーマンスは本当に予測可能か?)と題したセッションの終了後に話を聞いたある大学教授は、「意味のある予測モデルを構築するまでには忍耐が必要」「相当量のデータを蓄積して仮説検証を繰り返しても、どうしても3~5年はかかる」と述べた。
ケガの予防への取り組みを始めれば、すぐに精度の高い予測が可能になるわけではない。最初はとにかく、データを蓄積しなければならない。選手のコンディションのデータ、練習のデータ、そして(望ましいものではないが)ケガのデータも必須だ。優れた予測モデルを構築するためには、データの質と量、そして労力と時間が必要なのだ。
その大学教授は "Zero record equals zero plan"(データなくして計画なし)という言い方をしていたが、まさにその通りだ。
米国では既にデータを蓄積するフェーズを経て、情報量は一定の「しきい値」を超えている。仮説検証を経た優良な知見が続々と得られ、それらが共有されつつある。日本でも一刻も早く、データ蓄積と仮説検証の坂道を駆け上がらなければならない。