暴発した鬱憤、電車内のケンカの代償は
ままならない暮らしの憂さと疲れを酒で紛らわせた帰り道。電車内の混雑にイライラすることは誰しもあるだろう。売り言葉に買い言葉。酔った勢いで他の乗客と口論になることもあるかもしれない。しかし、相手に暴力を振るい、けがまでさせてしまえば大きな代償を支払うことになる。
10月にしては暑い日の夜のことだった。午後11時すぎの地下鉄車内は帰宅を急ぐ会社員らで混み合い、乗客の息に混じるアルコールのにおいが漂っていた。
仕事帰りのメーカー社員の男性は、片手にかばんを持って立ち、もう片方の手で新聞を読んでいた。駅を過ぎた電車が大きく揺れたとき、男性は後ろから肘で押されてバランスを崩す。数歩ふらついて振り向くと、後ろに立っていた50歳代の男がにらみながら言った。「何か文句あるのか。降りて話をするか」。顔は赤く、明らかに酒臭かった。
男性の顔面に頭突き4回
男性は「何かおっしゃりたいことがあるなら降りてお話ししましょう」と応じたが、次の駅に着いても男は降りるそぶりを見せなかった。「なんだ口だけか」とつぶやいた次の瞬間、男は続けざまに4回、男性の顔面に強く頭突きを浴びせてきた。一方的な暴行に男性の唇は切れ、右目付近が青く腫れ上がった。
相手の男は頭突きの後に逃走を図ったが、男性や周りの乗客らに取り押さえられ、駅員が呼んだ警察官に逮捕された。男性は右目の眼底骨折などで治療に1年かかる重傷。男は傷害罪で起訴され、懲役2年、執行猶予4年の有罪判決が確定した。
男性は男側から150万円の慰謝料を受け取ったが、残りの慰謝料額を巡る示談がまとまらず、民事訴訟を起こした。けがの後遺症でパソコンの図面が二重に見えるようになり、電子機器設計のエンジニアの業務に支障が出ているとして、治療費や後遺症に伴う逸失利益など約1300万円の損害賠償を請求した。
男は酔っていて記憶が無いとしながらも、頭突きを浴びせたことを大筋で認めて謝罪していたが、賠償額については争った。事件後も男性の収入が増加していることを指摘し、「後遺症は軽く、損害は発生していない」と反論。他に人に暴力を振るったことはなく、事件が起きたのは男性が「口だけか」と挑発したことが原因だと訴えた。
売り上げ不振、友人と「楽しくない酒」の後
それ以上の慰謝料を払えなかったというのが本音かもしれない。男は零細企業の役員だった。高校中退後、会社を転々とした後に、自ら会社を起こしたが、売り上げは年々減少。役員報酬は少なく、生活は苦しかった。
家に戻れば認知症の母の介護が待っていた。大学生の息子は介護を手伝おうともしない。2、3杯の焼酎を飲み、こみ上げるやるせなさから家の物置のドアを殴りつけたこともあった。
事件の日は例年参加しているバーゲンセールの最終日だった。売り上げは伸びず、終わってみれば前年の半分にすら届かなかった。終了後に友人と2人で焼酎のボトルを空け、店を移してもう1本空けた。「楽しくない酒だった」。後日、男はこう振り返った。
どんな事情があったとしても、暴力によって人にけがをさせた事実を取り消すことはできない。東京地裁は、男性が後遺症による作業の遅れを埋め合わせるために出社を1時間早めたことなどを挙げ、「労働能力を9%失った」と判断した。一方で男性の「口だけか」という発言が事件の原因の一つだとして1割の過失相殺を認め、男に約1100万円の支払いを命じた。男は判決を受け入れ、控訴しなかった。
「本当に大変なことをしてしまいました。ずっと反省しながら生きていきたいと思います」。多額の賠償責任が確定する前、刑事裁判の法廷で男はこんな後悔の言葉を口にしていた。事件の夜以降、外で酒を飲むのは控えているという。
(社会部 山田薫)