桃々会「卒都婆小町」
老いてなお残る強靱さ
先代宗家に仕えて以来、観世流を支える長老・関根祥六が大曲「卒都婆(そとわ)小町 一度之次第」で硬骨を見せた(3月23日・観世能楽堂)。
物乞いに落ちぶれてさすらう百歳の小野小町。高野山の僧を論破して勝ち誇るが、若き日に拒絶した深草少将の霊が取りつき恋の狂気のさまを再現する。現行型はおそらく世阿弥による短縮編集で構成の破綻は否めない半面、謡と舞の抽象的表現で貫くとダイナミックに再生する名作だ。
祥六は今回で7度目の「卒都婆小町」。小町が腰かけた卒都婆(仏体に等しい道標)をめぐる「卒都婆問答」で錯誤があったが、周囲の好サポートで事なきを得た。たとえ死しても中断を許されない能の舞台の厳しい現実である。その不調を引きずることなく、後半ことに男装の狂乱は圧倒的。腰と背筋の線を厳しく正した静中動、動中静のたたずまいは周囲の空気を凝結させる強靱(きょうじん)さを保ち、表面的な物まねを超えた「老いてなお残る肉体の実存」を突きつける。低くつぶやく謡は時に聞き取れないほど内輪に発せられても、この確実な身体に支えられると声としてコトバとして無類に深く心に響く。狂気の果て、自らもてあますように舞台にくずおれる姿は巨大な「記憶の廃虚」だ。歴史を刻印する身体。深く、重い、老女物の神髄である。
20歳の関根祥丸「蘆刈(あしかり)」は丁寧な稽古の跡が明白な快演。切れ味のよい運歩の鮮やかさ。型と型をつなぐ呼吸の緊密さ。早世した亡父・祥人の長所が立派に再生している。祖父・祥六の高みに至る芸の道は確かにつながった。
「桃々会」は祥六の個人研究会。採算を度外視したこの種の意欲的公演が能の芸術水準を支えてきた。観客動員が限定される能の興行は他演劇と一つにならない。公的助成が今後も期待されよう。
(演劇評論家 村上 湛)