介護は芸術だ 要介護5の母をモデルに作品づくり
折元さんは母親の男代(おだい)さんと川崎市の自宅に2人で暮らす。男代さんは現在95歳。要介護5の認定を受け、訪問看護やデイケアなどの介護サービスを利用する。しかしオムツ替えや食事介助、洗濯など同居する折元さんが負担する身の回りの世話は多い。何より大変なのは「毎朝3時ごろ、ばあさんの叫び声で起こされる」こと。約20年にわたる在宅介護生活の中で折元さんは制作を続け、男代さんとともに数々の芸術作品を作ってきた。
小さな母と世界の舞台へ
その代表作となったのが「アートママ 小さな母と大きな靴」(1997年)だ。撮影時、70代だった男代さんはすでにアルツハイマーとうつ病を患っていた。漫画に出てくるような大きな靴を履いているのは、男代さんが散歩中にぽつりと語った尋常小学校時代の悲しい思い出が発想のきっかけになったという。
「ばあさんは子どものころから身長が低くて、朝礼では一番前に並んでいた。その時、前がパカッと破れた自分のゴム靴を先生にじっと見られて恥ずかしかったと言うんだ。貧乏で新しい靴は買えなかったから、背がもう少し高ければよかったと。だから、段ボールでこの大きな靴を作って履かせて、家の前で撮ったんだよ」
この作品が海外キュレーターの目に留まり、2001年、イタリアの国際美術展ベネチア・ビエンナーレに展示され、高い評価を得た。写真が載った海外の新聞を見た男代さんは喜び、その姿を見た折元さんもアートが持つ前向きな力をあらためて感じた。
「暗くて重い問題を明るく表現するからいいって、とくにヨーロッパで言ってもらえた。人種の違いを超えて共通する、家族というテーマが世界で受けたんだと思うよ。でも、それを狙ってやり始めたわけじゃない」
芸術の道を支えたアートママ
折元さんが子どものころ、暮らしは貧しく、川崎市内の4畳半一間に一家5人で住んでいた。父には競馬場や競輪場に連れていかれた記憶しかないが、母は折元さんを人形浄瑠璃に連れていってくれた。絵を描くのが好きだった折元さんが東京芸術大学の受験を目指した時、応援してくれたのも母だった。
「オヤジが油絵の具のにおいを嫌がったから、この人(男代さん)がアパート借りてくれたの。文化に理解があるんだ」
折元さんは受験に7回失敗した東京芸術大学をあきらめ、69年、渡米した。カリフォルニア芸術大学で学んだ後、前衛芸術の大きなうねりが起きていたニューヨークへ移住。そこでナム・ジュン・パイクやヨゼフ・ボイスら名だたる美術家たちと出会い、パイクらと共に芸術運動「フルクサス」にかかわった。
美術館を飛び出し、日常に芸術を持ち込むフルクサスの手法は、その後の折元作品にも強い影響を与える。折元さんは何本ものフランスパンを顔にくくり付け、街を練り歩くパフォーマンス「パン人間」を世界各地で実施し、笑ったり困惑したりする市民の反応を写真に収めた。
介護芸術は記念写真から始まった
77年に帰国後、父親が亡くなり、各地を飛び回っていた折元さんが直面したのが、うつ病の症状が進んでいた母親の介護という現実だった。芸術家を志す自分を後押ししてくれた感謝の気持ちと、男兄弟3人の中で世話ができるのは独身の自分だけ、という思いから引き受けた。創作の道が閉ざされることに苦しみがあったが、ある時、「介護すること自体をアートにしたらいいんだ」と思いついた。
そこで、男代さんと近所の友人たちに「記念写真でも撮ろうや」と呼びかけ、古いタイヤを首に掛けてもらって撮影したのが「タイヤチューブ・コミュニケーション 母と近所の人たち」(96年)。折元さんは、摩耗して道端に捨てられたタイヤに社会から見放されたかのような高齢者のイメージを重ねた。
「最初はみんなびっくりして嫌がったけど、うちのばあさんが『やる』って言うから、全員納得してくれた」
要介護5になった今も、カメラを向ければオッケーサインを指で作るなどポーズを取る男代さん。折元さんがプレスリーの曲に乗せて男代さんのオムツ替えをする「エルビス・プレスリーのおむつがえ」(13年)など共同制作は続く。
発想転換でつらい現実もプラスに
今年4月、ポルトガルの古都エボラで開かれた美術展「アレンテージョ・トリエンナーレ」に招かれた。折元さんは、元修道院の会場に500人もの地元のおばあさんを集めて昼食会を開くという、大規模なパフォーマンスを実施した。食事など生活の一場面をアートとしてとらえ、高齢者とコミュニケーションを深める。折元さんがベルを鳴らして参加者を席へ導き、皆で食卓を囲むと、おばあさんたちから自然と歌や踊りが始まる。年齢や言語の壁を越え、会場は大いに盛り上がった。当日の模様は収録しており、ビデオ作品として今後発表する予定だという。
海外に比べ「わからないものを楽しむ自由さ、遊びの心が日本には少ない」と語る折元さんは、介護疲れで家族が自殺したり、心中したりといった介護にまつわる深刻な社会問題の広がりを憂える。
「これからは介護する側もケアする仕組みが必要。おれにはアートがあったから、マイナスの現実もプラスに変えられた。ばあさんのウンチやおしっこのにおいが染み込んだ作品は、ほかの誰にも出せないリアリティーがある。何より、明るい性格を受け継がせてくれた、この男代さんから生まれたことが一番良かったな」
(生活情報部 柳下朋子)