五輪との共存、スノーボーダーが抱えるジレンマ
スポーツライター 丹羽政善
もうすっかり雪山から離れてしまったが、1990年代前半から、しばらくスノーボードの世界に関わった。90年代半ばからは例年3月に開催されるスノーボードの全米オープンを毎年取材。ハーフパイプで五輪2連覇中のショーン・ホワイトがまだ幼い頃、大会開始前にポーチャー(コンテストには出場していないが、余興的に滑走を許される選手)としてパイプを滑っていたことも覚えている。
■厚い壁に跳ね返され続けた日本勢
あの頃、日本人選手はといえば、予選突破さえ全米オープンでは難しく、決勝に進んでも上位進出は厳しいという状況。ハーフパイプでは日本のトップだった中村明広(通称ゴリポン)、矢口薫といった選手が挑戦しても、厚い壁に跳ね返され続けた。高さと技。当時、最強だった北欧勢や米国勢と比較したとき、日本人選手が表彰台に立つ日はなかなか想像できなかったものである。
時代の変化は突然訪れた。2003年3月、全米オープンに足を運ぶようになってから初めて取材を見合わせた。するとその年、14歳の国母和宏がいきなりハーフパイプで2位に入ったのである。個人的には衝撃的だった。
スノーボードにはいろいろな大会があるが、当時、国際スキー連盟(FIS)が主催する大会には出ない、商業主義的な色合いが濃いスポーツ専門局ESPN主催の「Xゲーム」には利用されたくないといった理由で、世界のトップが一堂に会することはまれだった。
■全米オープンの勝者は世界の頂点
そんな中で、全米オープンだけは別。世界中からトップ選手が集まり、ここで勝つことが世界の頂点に立つという意味合いを持っていた。
それはスノーボードが五輪の正式競技になっても変わらない。例えば、98年2月に行われた長野五輪では、ジャン・シメンという選手がハーフパイプで金メダルを獲得したが、その翌月に行われた全米オープンでは決勝にも進めず、図らずも五輪とのレベルの違いを見せつける形となったのである。
国母はあの年、そういう大会で2位に入ったのだ。
大会終了後、国母が所属していたバートンのグローバルチームのマネジャーから、こんなメールが来たことを覚えている。「お前は日本のスノーボード界において、歴史的な1日を見逃したんだぞ!」
返す言葉がなかった。そして彼いわく、「彼の高さなら、世界で通用する。トリックもスタイリッシュだ」。
国母は残念ながら、2度出場した五輪(06年トリノ、10年バンクーバー)ではメダルには縁がなかった。しかし、10~11年と全米オープンのハーフパイプを連覇。ついに早くから評価されていた彼の滑りが、世界を制したのだった。
■平野、世界トップに最も近い位置に
今、その国母に代わり、ハーフパイプにおいて世界のトップに最も近い位置にいるのが、ソチ五輪に出場する平野歩夢である。
世界に通用するライダーが間を置かずして台頭してきた点でも、日本のスノーボード界の進化を感じるが、15歳の彼は今回、国母が立てなかった五輪の表彰台に上がる可能性も高いとみられている。米スノーボード専門誌「スノーボーダー」の元編集長で、現在はクリエーティブ・ディレクターとして同誌に携わるパット・ブリッジーズさんは、こう予想した。
「ハーフパイプでショーン(・ホワイト)に勝つのは、さすがに難しいかもしれない。しかし、銀メダルなら、十分に可能性がある。表彰台に上がる確率は高い」
確かに平野は、そんな高い期待を抱かせるだけの結果も残してきた。昨年1月、Xゲームのハーフパイプで2位に入ると、3月に行われた全米オープンでも2位に入った。14歳での2位は、国母と同じ快挙。
さらにその全米オープンでは、ちょっとした議論を巻き起こした。1回目のランで平野はホワイトを上回る滑りを見せたと、誰もが思った。しかし採点で8点近くもホワイトを下回ったのである。すると、ジャッジに対する疑問が沸き起こった。
■よければ銀メダル、悪くても銅メダル
それまでホワイトは、そういう疑いを差し挟む余地のないほど圧倒的な勝ち方で大会を支配してきただけに、ホワイトに迫ったライダーとしても、平野は一つの実績を残したのである。
ブリッジーズさんは、平野が表彰台に立てると考える理由を、国母と比較しながらこう説明した。「技の難度、多彩さ、スタイリッシュという点では、カズ(国母)の方が上かもしれないが、アユムの滑りはカズ以上にスムーズだ。どのトリックも無理がない。五輪のようなコンテストに向いているのは、アユムのような滑りだ」
よければ銀メダル、悪くても銅メダル――。30年近く、世界のスノーボードシーンを見てきた彼の目に、今回の五輪の行方はそう映る。ちなみに、米スポーツイラストレーテッド誌の予想では、平野がハーフパイプで2位に入ると予想していた。
さて、世界のスノーボードシーンは日本人選手の台頭もあって、この10年で大きく様変わりしたわけだが、全く変化していない、むしろ、後退している部分もある。しかも、根本に関わる部分で。その問題とは何か。
■関係最悪、IOCやFISと相いれず
ブリッジーズさんがこう指摘する。「今、国際オリンピック委員会(IOC)とFIS、そしてスノーボードの関係は最悪な状態にある」
そもそも、スノーボードはIOCやFISと相いれない。
スノーボードが五輪の競技になった。そこまではいい。しかし、IOCはスノーボードをFISの管轄とした。そこから、おかしくなった。もともとスノーボードには、スノーボーダーたちが組織した国際スノーボード連盟(ISF)という組織があった。彼らが競技を組織し、様々な大会の基準も設けてきたのである。それがスノーボードが五輪競技にまで発展する原動力となったのだが、IOCはなぜかISFを外した。
多くが首をかしげたが、それも当然。FISはむしろ、スノーボードの人気がそれ以上に高まることを恐れ、スノーボードが五輪競技となることに反対の立場だったのだ。スキー業界は市場を奪われる懸念を隠さず、ゲレンデではスノーボーダーを締め出すなど対立を続けており、2つのスポーツが同じ団体に属することになるとは、互いに想像しなかったし、望まなかった。
■FISに選手流れ、スポンサーも
スキーとスノーボードは、全く別のスポーツ。この点においてFISとISFは唯一、共通した認識を持っていたといっていい。が、いったんスノーボードを傘下に収めると、FISは五輪出場のための選考大会を、FISが主催する大会に限るとし、選手を囲い込んだ。
いわば五輪を人質にとった格好である。結果的に五輪に出たい選手がISFからFISの大会に流れると、それに伴ってスポンサーも移った。「これが狙いだったか」とISFが気づいたときにはもう遅く、資金源を失った彼らの寿命は長くなかった。
もちろん、そんな状況をスノーボーダーたちが歓迎するはずはなく、当時、いや、今もスノーボード界ではカリスマ的な存在感を誇るノルウェーのテリエ・ハーコンセンらは明確にIOCとFISを非難し、長野五輪をボイコットした。
彼らが求めたのはスノーボーダーによる競技運営。だが、IOCもFISも耳を貸そうとしなかった。
ハーコンセンらは結局、02年にISFが消滅すると、多くのスノーボーダーの支持のもと、「TTR(The Ticket to Ride)」という団体を立ち上げている。スノーボーダーによる大会を目指し、今や全米オープンやXゲームも加わり、それなりの規模となった。彼らは彼らでスノーボーダーによるスノーボーダーのための文化を地道に築いてきたのだ。
■ハーフパイプ、テレビ視聴率よく…
しかしながら、TTRとIOC、FISの対立は11年に極まる。
10年バンクーバー五輪で行われたハーフパイプ競技のテレビ視聴率がよかったことに気をよくして、IOCはコース上に設置されたレールやボックス、キッカー(ジャンプ台のこと)を利用して技を競うスノーボードのスロープスタイルという競技をソチ五輪の新種目として導入することを考えた。困ったのはFISである。彼らは1度もスロープスタイルでプロレベルの大会を開催したことがなかったのだ。それが、今回のソチ五輪のスロープスタイル競技において、コースの問題点が指摘されていることの一因ともとれるが、いずれにしてもあのとき、IOCはTTRの大会を参考にしてはどうかと助言した。それは暗にTTRに任せたらどうか、ということでもあった。
この限りでは、IOCもTTRにわずかだが、歩み寄りを見せたことになる。だがFISは自分たちでできると譲らず、11年1月に初の大会を開催。しかし、そこでまた問題を引き起こす。その日には別の団体の大会が予定されていたからだ。
FISはISFを潰したのと同じように、選手を奪って他の大会を潰そうとしている――。当然、TTR側にはそう映り、ハーコンセンは公開書簡という形で、その行為を強く批判した。
■建設的な対話、閉ざされたまま
そしてその年の秋、IOC、FISとTTRの関係は、亀裂が修復できないまでに広がる。
TTRはスノーボーダーらの声をまとめ、スノーボードの五輪代表選考をFISが主催する4試合とTTRツアーの4試合を合わせた8試合で行ったらどうかと、FISに提案を行った。言ってみれば、共存を訴えたのである。IOCを交えて話し合いも重ね、TTRはスノーボーダーによる大会運営の必要性も強調した。
だが、IOCとFISからの返答は「ノー」。ゼロ回答だった。
それ以降、建設的な対話は閉ざされたままだ。それに伴ってTTRの求心力も微妙となり、現在の組織はハーコンセン本人の言葉を借りれば「Lost in translation」。直訳すれば「翻訳により、言葉のニュアンスが失われる」といった意味だが、彼がその短い言葉に込めたのは、様々なバイアスがかかり、スノーボーダーらが共通のゴールを見失っているという現状であり、意思統一出来ないジレンマが、その裏に透ける。
ただ、「TTRがこのままISFの二の舞いになるのではないか」という懸念が高まる中、1月半ば、ホワイトがTTRツアーの一つで、伝統ある「エア&スタイル」という大会の主催権を買い取った。彼の中に大会を守ろうという意識が働いたとみられ、スポンサーら賛同者が出れば、ようやく閉塞感が打破できるかもしれないと期待が高まっている。ハーコンセンも「彼のネームバリューと実績があれば、スノーボードを本来のものに戻せるかもしれない」と期待を寄せた。
■五輪種目に選ばれても市場は縮小
ところで、そのハーコンセンはスノーボードが五輪競技になったことによる別の弊害を指摘してきた一人である。
一般には五輪種目に選ばれることで、競技人口が増え、市場が拡大するとみられているが、スノーボードの場合はむしろ逆効果。五輪の正式競技にとなった98年前後をピークに、スノーボード市場は縮小しているのだ。
特に、かつては強みを持っていた、子供たちを取り込めていない。12年5月13日付の「デンバーポスト」紙によると、米国でスノーボードをしている人の平均年齢は23.5歳(96~97年)から、27.5歳(10~11年)まで上がったという。昔やっていた人が続けているだけで、新しく始める人が減っているのだ。
その理由について、ハーコンセンはブリッジーズさんによるインタビューでこう分析していた。「五輪により、ハーフパイプがスノーボードの中心となってしまった。でも、今のハーフパイプを見ていると、みんな同じトリックばかりだ。おそらくそれは五輪の採点で有利なのだろう。が、それが面白いかといえば、そうは感じられない」
■創造性と自由が本来の魅力だが…
創造性と自由。それが本来、スノーボードが持つ魅力だった。それが今、型にはまったスポーツになろうとしている。
確かに不思議だ。日本では、国母、平野という世界トップクラスの選手が育ったというのに、それが日本のスノーボード市場の拡大につながったという話は聞かない。90年代にはいわゆるガレージブランドが雨後のたけのこのように生まれて勢いがあったが、それらも淘汰され、大手にもかつての勢いは感じられない。
華やかな祭典の裏で、五輪との共存に矛盾を感じながらスノーボードは今、岐路に立っている。