長宗我部元親から「信長に恭順」手紙 明智氏家臣に
戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土を巡り、本能寺の変の前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日、発表した。
信長は、四国は元親の自由にさせるとの方針から、一部しか領有を認めないと変更。手紙は明智光秀の家臣、斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。
手紙は天正10(1582)年5月21日付。直後の6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が、信長の方針転換に納得しなかったことが原因との説もある。
この手紙の数日後には信長の命令で四国を攻める兵が大阪で待機しており、県立博物館の内池英樹主幹は「信長が四国を攻めようとする直前の元親側の様子が明らかになった」と評価。光秀の勢力は元親と関係が深く、恭順の意を示した元親を攻めようとする信長を止めようとして本能寺の変につながった可能性があるという。
美術館などによると、見つかった手紙は、室町幕府の13代将軍、足利義輝の側近、石谷家に関わる古文書「石谷家文書」の中にあり、47点が3つの巻物になっていた。〔共同〕