パルコ・プロデュース「国民の映画」
役者の個性全開、現代の危機感と呼応する舞台
大成功を収めた舞台の再演は難しい。新鮮な気持ちで役者たちが再度、舞台に立てるか。おうおうにして「前の方が鮮度がよかったなあ」となりがち。ところが達者な役者を集めたこの再演、さすがに見ごたえがある。
思えば3年前の早春、この舞台は東日本大震災の渦中に上演された。作者で演出も手がけた三谷幸喜は「この時期に、なんでシリアスドラマを作ってしまったのか」と語っていたが、現実の生々しい危機感とナチスを題材にした切迫感が呼応し合い、とびきりの成果を生んだ面がある。再演にはシリアスな題材をいかに喜劇化するか、三谷ならではの新たな挑戦が秘められている。
1940年代のドイツ、ナチス宣伝省のゲッペルズ大臣のホームパーティー。むろん架空の設定ながら、ここで繰り広げられる会話の多くは史実に沿っている。ナチスの警察権力を掌握していたヒムラー、空軍総司令官だったゲーリング、ベルリン五輪の記録映画で知られる女性監督レニ・リーフェンシュタール、詩人で作家のケストナーらはむろん実在の人物である。これに当時の映画関係者を加え、異様にテンションの高いシチュエーションを作りだす。
ナチスの宣伝映画に協力するか否か。ユダヤ人や同性愛者への非情な政策を知った映画人の心は揺れ動く。非人間的なナチスを疑わないゲッペルズが映画芸術の最高の理解者であるという皮肉な構図が劇のツボになる。これは小日向文世のために書かれたと言ってもいい役で、初演に続きものの見事にはまっている。情を拒絶する冷酷さ、映画をたたえる淫靡(いんび)なまでの情熱。オンシアター自由劇場以来、暗さをたたえるパセティックな演技に魅せられてきたが、このゲッペルズこそ代表作だろう。
舞台は終盤のためにある。それはもの静かなユダヤ人執事フリッツとゲッペルズの対峙(たいじ)するしじまが素晴らしいから。あす当局に出頭するフリッツはゲッペルズの命令調の言葉に激しく反発しつつ、ともに映画を見る。ゲッペルズの言葉の軽さ、フリッツの怒りの地金のような頑強さ。ふたりの力関係はこの密室でつかのま逆転する。無名の人間の意地が闇を切り裂く光の一閃(いっせん)のよう。三谷の作劇がいつも狙い定める急所が、この舞台ではひときわ鮮やかに浮かびあがる。小林隆の確度の高い演技には定評があるが、今回の舞台は最高の成果と言っていい。見事だ。
ユダヤ人絶滅計画を淡々と、工場の製造ラインか何かのように話すヒムラーの段田安則も、いつもながらセリフのキレがいい。愛敬がにじむのは持ち味だが、異常さが等身大の人間の口からさらさらと流れ出る。切り替えの鮮やかさはさすが。この舞台には出てこないが、ユダヤ人問題の最終解決をになったアイヒマンという人は激情家でも悪魔的人物でもなく、驚くほど冷徹なインテリだった。ナチス・ドイツの官僚制が今に通じるこわさを持っている由縁であり、設定の不自然さをあえて飲み込む作者がこの舞台でとらえようとしたものでもあっただろう。
良かった役者をもう少し挙げておこう。狂気に静かにあらがう老優の小林勝也。奇矯さで知られた役者だが、いつのまにか芸域が大きく広がって、格別の余情がある。今井朋彦(ケストナー)の矛盾に満ちた屈折感。新妻聖子(リーフェンシュタール)の異様なまでの上昇志向。シルビア・グラブ、風間杜夫、渡辺徹も頑張っている。荻野清子のピアノ生演奏もしゃれた趣向。演劇各賞を受賞した「国民の映画」は実に役者の個性を見るための演劇だと改めて感じた次第。
さて、実在の外国人を配した三谷幸喜の劇はこの作品に限らない。日本人が演じる不自然さをいとわないのが特徴で、この舞台でもナチスの政治家らしく見える必要はないというわけだ。生身の役者の地肌を見せるのがミソ、つまりは日本人の演劇なのだ。
初演に比べ、役者に寄り添い、喜劇の要素を打ち出そうと試みた分、作品の骨格は小さくなるうらみがある。シチュエーション・コメディーの間合いだけではすくいきれない深刻な歴史が、やはりナチスドイツの政治にはある。が、別の妙味も今回は感じられた。ヒトラーの名を出さず「あのお方」と隠語で呼ぶことで巨大な権力を暗示する設定は、直視してはならない神たる天皇をいただいて大戦争を起こした日本人の過去を嫌でも思い起こさせる。この場につどう面々が日本人の似姿に見えてくる。周到な婉曲(えんきょく)さで、今日の日本への危機感を示した舞台だとも思えるのだ。あっ、これは三谷幸喜の日本人論だった!
3月9日まで、東京・パルコ劇場。3月13~16日、大阪。森ノ宮ピロティホール。3月21~23日、愛知県刈谷市総合文化センター。4月4~6日、福岡市民会館。
(編集委員 内田洋一)