ジョホールバル 空白の大地はフロンティアの匂い
シンガポール=編集委員 太田泰彦
シンガポールに隣接したマレーシアの町ジョホールバルは、一昔前の西部劇の映画のような「フロンティア」の匂いがした。一獲千金の富を求めて開拓地へと急ぐ人間の群れ。勇敢な冒険家もいれば、カネへの嗅覚が鋭い商人もいる。探鉱や土木で腕を振るう技術者もいる。中には荒くれ者も交じっている。外の世界から次から次へと訪れる新参者と、日々刻々と変貌していく町並みに、地元の民は戸惑い、時には怯えながらも、これから町が大きくなっていくかもしれない期待に胸を膨らませている。
「OK牧場の決闘」「荒野の用心棒」など往年の名画で描かれたのは、埃っぽく、汗臭い光景だった。乾燥した北米の開拓地と違ってマレーシアの空気は湿っているけれど、同じ雰囲気が漂っているのはなぜだろう。おそらく集まってくる人々が醸し出す独特の表情のせいではないか。たとえば三井物産がマレーシア政府系企業との共同出資の開発会社に送り込んだ2人の駐在員、岡村哲夫氏と石田一明氏である。
巨大プロジェクト「イスカンダル計画」
「町づくりは順番こそが大事なのです」。ジャングルやゴム畑を切り開いて地表が露出した広大な大地を指さして、彼らはそう何度も強調した。開発する総面積は東京都とほぼ同じというから、とてつもなく巨大なプロジェクトである。2本の橋でつながる隣国のシンガポールが対岸に見える。そのシンガポール一国より大きな都市を作る「イスカンダル計画」だ。
土地はいくらでもある。とはいえ、手当たり次第に次々と施設を建設すればよいというわけではない。一気に大量の集合住宅をつくれば、供給過多で価格が崩れるかもしれない。そもそも働く場所や遊ぶ場所がなければ人は集まらないだろう。
ローマは一日にして成らず。都市は一朝一夕には築けない。三井物産が開発を手がける地区では、最新鋭の医療機器と人材を集めた高度医療の病院が完成を目前に控えていた。さらにテーマパークの「レゴランド」、英国の名門パブリックスクール「マルボロ・カレッジ」が初めて海外に開設した分校もある。整備された工業団地には、精密機械、食品、電子部品などのメーカーが入居し始めていた。
ここでは、働く、遊ぶ、学ぶ、住む――という人の営みの全方面に目配りしながら、順序よく施設を造っていく考え方が貫かれている。さまざまな都市機能が有機的に連結したときに、はじめて開拓地に生命が宿り、新興の町としてブランド価値を高めながら発展していくはずだ。2025年までに人口300万人の巨大都市を完成するというマレーシア政府の計画目標は、おそらく達成できないだろう。さら10年、20年、いや、もしかしたらあと半世紀ほどの長い年月がかかるかもしれない。
気の長い話だが、岡村氏らの表情に焦りは感じられなかった。「自分の定年までに全て出来上がるとは思っていませんから」。日焼けした顔に、落ちついた笑顔を浮かべる岡村氏の年齢は40代後半だろうか。生き馬の目を抜くと評される日本の商社マンであるかぎり、日々利益を上げなければならないはず。だが、東京の本社からどの程度のプレッシャーを受けているのかは聞きそびれた。ジョホールバル駐在員の2人は、ぎらついた目つきではなかった。フロンティアに立つロマンチストの開拓者の顔をしていた。
対照的だと感じたのは、中国企業が急ピッチで建設するウォーターフロントのコンドミニアムの地区だ。高い塀で囲われた一画に巨大なクレーンが林立し、無数の作業員が忙しそうに働いている。約9000戸の世帯が集中する高級住宅群が誕生するという。高層階の部屋から、のんびり海を眺めたら確かに気持ちがよさそうだ。だが、ここ1カ所に、家族を合わせて何万人もの人々が住むとしたらどうだろう。建物の前の道路は狭すぎるし、周囲には何もない。職場まで車で通う暮らしを想定しているようだが、毎朝おなじ通勤時間帯に一斉に車を走らせ始めたら、たちまち大渋滞で動けなくなってしまうのではないかと心配になった。
ひと目につく部分だけ飾った建物
工事現場で、いささか滑稽な光景を見た。建物はまだ半分もできていない。しかし、塀の外側のひと目につく部分だけは完成している。楽しい「オーシャン・リゾート」のイメージを表現するためだろう。道路に面した芝生のそこここに、貝やヒトデ、タコ、イカなどを模した大きなオーナメントの像が立ち並んでいた。まず見栄えから入るという開発企業の方針がにじみ出ているように感じた。
シンガポールや日本や中国など外国企業を積極的に呼び込み、民間の力を活用して開発を進めるのがマレーシア政府の方針。だが、投資と収益の時間をめぐる感覚は、参入する企業によって全く異なるようだ。とにかく早く建てて人気を演出して売りさばくか、それともじっくり腰を据えて町を育て、町全体の価値を高めるのか。どちらが正解とも判じにくいが、さまざまな考え方の投資企業が同じ土俵の上で混ざり合って、互いを意識しながら競いあっている姿は、なんともフロンティア的ではないか。
日本人だけをみても、ジョホールバルに集まってくる人々は多彩だ。三井物産のような大企業の人材も来ているが、自分の夢を求めてこの土地にたどり着いたという若者も少なくない。
取材で出会ったある青年は自称「海外ノマド(遊牧民)」。「英語もまったくできず、一文無し同然の状態でやって来て、ここで仕事を立ち上げた」という。IT企業に勤めていたが、リーマン・ショックの影響で職を失い、やがて日本を飛び出した。日本への情報発信や視察者の案内、地元企業との交渉代行、旅行や配車の手配など、いわゆる「何でも屋」のようなサービス業である。
放浪者も暮らす懐の深い街
ひょろっと背が高く、シャイで人見知りしそうなおとなしい人柄で、冒険家や開拓者にはとても見えない。ところが「僕は青という色が大好きなんです」と、青色について語り始めると目を輝かせて話が止まらない。青い財布と出会ったことがきっかけで、自分らしく生きる道に目覚めたのだという。服も小物もパソコンも、すべてブルーでそろえている。日本では組織から押し出されてしまいそうな、こんな個性的な若者が、生きいきと暮らせる町。それがマレーシア、とりわけジョホールバルの魅力かもしれない。
生活コストが低いことは、フロンティアの条件だろう。懐がさみしくても、なんとか暮らしが成り立つからこそ、「自分探し」や放浪の旅の目的地になりうる。お隣のシンガポールは清潔で治安もよく町並みは整然としているが、住んでいる日本人といえば企業派遣のサラリーマンの姿ばかりが目立つ。「ノマド」はシンガポールでは暮らせないのだ。
シンガポール人は、お隣の新興都市ジョホールバルをどう見ているか。職場の同僚や知人に尋ねると、治安が悪くて怖い場所だと思っている人が多いことがわかった。車で30分ほどの距離で、そのまま国境を越えて走れるのだが、「安心できない」と、なかなか行きたがらない人も多い。路上に駐車すると車内が荒らされ、路地裏などでスリやかっぱらいに遭遇することを恐れているのだ。「無法地帯」のイメージが根強く残っている。
イスカンダル計画は成功するだろうか――。政府主導の国家プロジェクトであるだけに、開発企業の腕前だけでなく、混迷が続くマレーシアの政治情勢にも依存する。一貫して計画を支援してきたシンガポール政府の方針も、計画の行方を大きく左右するだろう。
だが一つだけ言えるのは、これまでの東南アジア諸国にはなかった新しい何かの誕生を予感させる、ザワザワした空気が、ここジョホールバルに流れているということだ。秩序とはほど遠く、多様で、乱暴で、得体の知れないエネルギーに満ちた開拓地。不敵な笑みを浮かべた日本人に、何人もここで出会えたのは、政府による秩序を誇る管理国家シンガポールから訪ねた私にとって、うれしい誤算だった。
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