町人学者が育んだ知の系譜
古きを歩けば(55) 適塾(大阪市)
大阪・北浜のオフィスビルの谷間に、ひっそりとたたずむ古びた町家がある。幕末を代表する蘭学者であり、医師である緒方洪庵(1810~1863年)が開いた適塾(国史跡、重要文化財)だ。
戦渦免れた希少な大阪の町屋建築
第2次大戦の戦禍を免れ、江戸時代のたたずまいを大阪都心でとどめる希少な町家建築とされる。洪庵は1838年(天保9年)、ほど近い大阪・瓦町でオランダ語や西洋医学を教える適塾を創設。7年後、この町家に移転した。彼が幕府奥医師となり江戸に赴いた1862年(文久2年)以降もしばらくの間、娘婿らによって塾生への教育は続けられた。
緒方家などにより1942年に国に寄付され、現在は大阪大が管理、一般公開している。1976年から4年をかけて解体修理が行われ、当時の姿にほぼ復元された。
■福沢諭吉、大村益次郎らが巣立つ
敷地の間口は6間余り(約12メートル)、奥行きは約21間(約39メートル)の2階建て。当時の一般的な商家の構造という。玄関から入ってすぐにある2部屋が、教室として使われていた。商家では店舗部分にあたる。意外に狭い。中庭を挟んで洪庵の書斎がある。街の喧噪(けんそう)は届かず、庭をのぞむ窓から風が涼やかに吹き込む。
急な階段で2階に上り、塾生が共用した蘭和(らんわ)辞書「ヅーフ辞書」が置いてあった「ヅーフ部屋」などを通り抜けると、塾生が寄宿した大部屋がある。累計で1000人近い若者が全国各地からここに集い、福沢諭吉や大村益次郎、橋本左内ら、明治維新や日本の近代化を支えた多くの人材が巣立っていった。
「ギャアギャア書を読みし有様はオタマジャクシが小溝に群鳴するに異ならず」。諭吉は後年、適塾での生活をこう振り返っている。
大部屋の中央に立つ柱を見ると、無数の刀傷が残っている。「血気盛んな塾生が付けたとされています。蘭学塾自体が世間から少し逸脱したような雰囲気でしたが、適塾はさらに自由闊達、いわゆるバンカラな気風だったようです」と、大阪大適塾記念センターの広川和花准教授は話す。
■各地で医療近代化支えた塾生
今年は洪庵没後150年、適塾創設175周年にあたる。大阪大はこのほど、33年ぶりに展示内容を一新。適塾をめぐる人々の航跡がより分かりやすいよう、パネル解説などを改めた。彼らが交わした書簡の複製など、多くの史料も新たに展示されている。
1階の展示は洪庵の人物像や学問上の業績、彼が力を入れた種痘やコレラ対策などの医療活動などを解説。2階の展示は塾生について説明している。
監修した広川准教授は「従来の展示は、その後に著名になった塾生が中心でした。しかし他にも、各地で医療などの近代化を支えた塾生が多数いました。彼らは国元に帰った後も交流を続け、書簡のやりとりなどで知識が広がっていった様子がうかがえます。新たな展示では、適塾の様々な側面を史料に基づいて紹介しています」と説明する。
大阪大は適塾を「原点」に、洪庵を「校祖」に位置付けている。直接の連続性はないが、洪庵の息子や適塾関係者らによって設立された大阪仮病院や大阪医科大学が大阪帝国大(1931年設立)の母体となったからだ。「適塾の自由な学風や枠にとらわれない学際的な探究心、洪庵の『人のため、世のため、国のため、道のため』の精神を引き継いでいます」。江口太郎副学長は胸を張る。町人の町、大阪が育んだ町人学者の学問への情熱と知の系譜は、未来へと続く。
(文=編集委員 竹内義治、写真=伊藤航)
=おわり